『風立ちぬ』感想① ~倫理

一口に言えば傑作だと思う。

だがそれで片づけてしまうのもあんまりなので、感想というか、批評めいたことを書いてみる。

 

この作品で宮崎駿が取り組んだのは、何よりもまず倫理の問題なのではないか。そんな印象を受けた。

もちろんあらゆる作家は、その作品の中で、自ら語るにせよ登場人物に仮託するにせよ、各自の倫理を開示することを余儀なくされる。その意味で、何らかの倫理を浮かび上がらせない芸術作品など存在しない。

だが、『風立ちぬ』についてはそういった一般論以上に、倫理性を強く感じた。

一つにはやはり、この映画が戦争や破局を巡る状況(ゼロ戦だけでなく、関東大震災や結核)に舞台を置いているからだろう。

個人が自らの投げ入れられた状況の中でなす選択において倫理は結晶化するが、その状況が先鋭的なものであるほど、各人の選択にかかってくる負荷もまた増してゆく。そこで示される倫理の強度が上がってゆくのである。必然的に、そのような状況を描く作品が倫理的である度合いも強まる。 

宮崎がこの映画について、繰り返しファンタジーであることを否定するのも、この倫理的賭金に対する受け手の感性を鈍らせないためではないかと想像する。実際のところこの作品は、非現実な生物や技術、異世界との接触といった露骨なファンタジー要素は排しながらも、想像力の飛躍という点では、宮崎ファンタジーの集大成とも言えるものになっているのだから。宮崎はファンタジーという語を使用することで、作品の意義が活劇的な側面ばかりに回収され、「二郎」や「菜穂子」といった登場人物の生の厚みが予め減じてしまうことを危惧した、そんな風に思う。 

ところでここで言う倫理とは、「みんな仲良くしましょう」だとか「泥棒はいけません」といった、慣習的道徳や公共的な規範性のことではない。「お前はいかに生きたのか」という問いに対し、「私はかく生きた」と突き返す生の有り様それ自体のことであり、その限りにおいて単純な善悪に基づく価値判断を超出している生の躍動である。

だから「堀越二郎」がゼロ戦を作ったことが、歴史的評価として正しいことか過ちかという視角では、この作品には接近できない。ぼくたちは、その後の日本が辿った道程を既に知っている、ある意味で不実な観衆である。しかし作中の「堀越二郎」はそのようなことなど知る由もない。知らないからこそ、その都度その都度の選択によって、未知のさなかに踏み込んでゆく。戦争にかかわる事柄だけでなく、「菜穂子」との恋愛も同様である。療養所から抜け出す「菜穂子」の姿、それを受け止める「二郎」、相互の了解によって共同生活に歩み出すという決断、こういったメロドラマ的な要素の一つ一つにも、来るべき死を見据えながらもその受容のあり方は自分たちで形作ろうとする、未知への投企が宿っている。不可知な地平へと自らを投げ入れていく行為は、実存の拠って立つところのものである。宮崎はその点を見つめている。『風立ちぬ』は、時代との対峙から生ずる結論ではなく、個人が時代と対峙する行為そのものを描く。情熱の帰結ではなく、情熱の営みを提示する。だから見る者は――少なくともぼくは、この映画に惹きつけられた。

 反戦平和や、あるいは逆に戦争賛美といった、往々にして予断に基づく分類を志向する発想は、営みとしてしか表現されえない生の独異性・一回性を平板化するものである。宮崎が企図したのは、戦争批判でも戦争美化でもなく、そのような単色的な切断からの偏差、グラデーションとしてしか成立しない個人の問題なのではないだろうか。既存の枠組みに回収されることへの、断固たる抗いとして、倫理は立ち上がってくるのである。

だがこうした個人の倫理は、個人の倫理である限り、必然的に敗者である。単純に、「他者」が常に「私」の一回の生を越えて生き延び、「私」の意図を読み換え、「私」の企てを歪め、「私」が置いた色の上に異なる彩色を施していくからである。個人の生の意味は、歴史の中で必ず屈折する。そして生そのものに体現される倫理が、超越と化した価値規範(「殺すなかれ」、「盗むなかれ」etc.)と異なる点は、ここにある。倫理とは、裁くものではなく裁かれるものなのだ。

先ほど、ぼくたちは歴史のその後を知っている不実な観衆である、と書いた。しかし、ここが『風立ちぬ』のキモだと思うのだが、ぼくたちが眺めるこの映画の主人公「堀越二郎」は、史実の堀越二郎とは違う「完全なフィクション」、いわば未知の人物なのだ。それゆえにぼくたちは、事後を知る裁き手として過去の史実に立ち会うのではなく、映画に没入する過程で、未知への歩みに同行することになる。史実は既に閉じているが、史実ならざるこの物語の歴史は開いている。「二郎」や「菜穂子」とともにこの物語を歩むなら、そこで問いに付されるのが、彼らに没入する我々の生のあり方でもあるということに気付かざるをえないだろう。見る者は、裁き手でなく、裁かれる者となるである。傍観者から当時者へのこの位相転換こそ、『風立ちぬ』が起動させる一つの仕掛けなのであり、この映画を魅力的なものにしている決定的な要素であると思う。

ここからは、倫理に関連して重要な論点が導き出される。倫理は必然的に敗北すると述べたが、傍観者から当事者への変化が果たされ、「二郎」や「菜穂子」の生きた倫理を、ぼくたち自身に向けられた問いとして生き直すならば、そのとき彼らの倫理はぼくたちの倫理として命脈を保つということだ。応答可能性としての責任の十全なあり方が、そこに垣間見られる。作家が提示するある生のあり方に伴走した上で、「ではお前はいかに生きるのか」という問いに応じようとぼくたち自身が生きる中から、また新たな倫理が立ち上がる。「生きねば」という、『ナウシカ』から『風立ちぬ』までを貫く一言は、物語を閉じる言葉ではなく物語を開く言葉である。生きねばならないのは、言うまでもなくぼくたちである。