戦争装置・靖国神社

高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書、2005年)を再読しました。

出版からちょうど10年の節目になるのですね。何の気なしに手にしたのですが、あらためて読むと、安保法制を巡る現代の議論に対しても示唆的だと感じたので、少し紹介しておきます。

主要な論点は極めて明快です。すなわち靖国神社は、日本の対外(侵略)戦争における戦死者を「追悼」するよりもむしろ「顕彰」することによって、戦死者を崇高化・英雄化し、他の国民も後に続くよう促す近代的な戦争装置である、というものです。戦死を悲しむのではなく美化することで、死に対して国家的な価値付けを行ない、戦死を厭わぬどころか嬉しく本望だと感ずるような国民意識を醸成して、軍隊への動員を活性化し続ける――そのような国家の政治的意思によって貫徹され、駆動しているのが靖国神社という戦争装置なのだ、と。

靖国を巡る具体的な言説を豊富に取り上げ、歴史認識の問題や政教分離の問題にまで切り込んでいく高橋の筆は、十分に説得的だと思います。

上記の論理はさらに敷衍して適用され、一時期議論されていたような無宗教の国立追悼施設もまた、国家という政治体を背後に持つものである以上は、「追悼」から「顕彰」への横滑りを防ぎえないのではないか、と批判されるわけですが……。まあその辺については、興味のある方は実際に読んでもらえれば、というところです。

私が思うに重要なのは、このような顕彰の論理、靖国の論理が、現在の安保法制と相俟って復活してくるであろうという点です。いや、この論理は決して死に絶えたことなどなかったのですから、復活というよりは前景化・顕在化と呼んだ方がいいかもしれませんが。いずれにせよ、現政権や与党の中枢にいるような人物の口から、例えば自衛隊ないし自衛隊員の役割を感情的に美化するようなセリフが飛び出し始めたら、そら来たぞと思う程度には注意をしておくべきだと思います。

安保法制が最終的に成立し、アメリカの戦争と連動して日本が集団的自衛権を行使できるようになれば、自衛隊員の犠牲者が出る日は遠からず確実に訪れると思います。そのときこの国は、仰々しいセレモニーと国民的な美談とを用意してその死を迎えるだろうと想像されます。「国のため、国民のために一命を捧げた」といったレトリックはまだまだ有効でしょうから。しかしそれは、戦死者個人の死を周囲の者が個人として悼む仕方ではありません。それはあくまでも国家の政治的論理が準備したストーリーなのであり、そうしたストーリーを受け入れる限りにおいて、各人の死の意味は国家によって収奪されていると言うことができます。その瞬間、また靖国システムが凱歌を上げることになるわけです。

ではこのような戦争動員システムを停止させるには、どのようにすればよいのか。各自が個人としての悲しみにとどまることが肝要だ、という主旨のことを高橋は述べます。少し長くなりますが引用します。

靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としないことになる。一言でいえば、悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ。まずは家族の戦死を、最も自然な感情にしたがって悲しむだけ悲しむこと。十分に悲しむこと。本当は悲しいのに、無理をして喜ぶことをしないこと。悲しさやむなしさやわりきれなさを埋めるために、国家の物語、国家の意味づけを決して受け入れないことである。「喪の作業」を性急に終わらせようとしないこと。とりわけ国家が提供する物語、意味づけによって「喪」の状態を終わらせようとしないこと。このことだけによっても、もはや国家は人々を次の戦争に動員することができなくなるだろう。戦争主体としての国家は、機能不全をきたすだろう。

(前掲書、51頁。)

 国家の大義といったものにすり寄らずに、個人的な水準に踏みとどまること――これは一見弱々しく不十分な抵抗とも感じられますが、実は相当に強力な倫理なのだと思います。「中国に対する抑止力は必要だ」という風な何やらわかったようでいてその実まったく抽象的な論に対し、「自分の息子を戦場にやりたくない」あるいは「自分は人に武器を向けたくない」といった反論は、噛み合わないミクロ目線なのではなく、純粋に切迫した個人性なのではないでしょうか。個人的なものの収奪に備えることは、戦争に対する拒否に繋がるのだと思います。

ところでここまでグダグダと書き連ねてきたことは、靖国の論理の発動を想定し、それにいかに抗していくかを主眼としたものでした。本当はそんな抵抗の必要なく、戦争遂行装置が駆動する前に止めることができるなら、それが一番なのは言うまでもありません。そのためにも今、喫緊の課題はやはり、一刻も早く安保法制を廃案にすることなのだと確信させられます。