シリア難民のニュースについて
シリア難民の殺到による混乱でハンガリーのブダペスト東駅が一時閉鎖、警官隊と難民が睨み合い、というニュースにもの思います。
軍事組織の衝突を逃れてヨーロッパまで辿り着いたと思いきや、今度は警察組織に行く手を阻まれる……クソとしか言いようのない状況なわけです。
暴力装置から暴力装置へ、一方の手を逃れようとして他方の手に落ちる……難民とは暴力装置と暴力装置の間を流浪する民のことであるという現実が、否応なくそこにはあります。
反面で、そのような暴力装置のことを安全保障装置だとか平和維持装置だと錯覚できる立場にある者が、近代的な意味での「国民」と呼ばれる存在です。そして「国民」の中でも最も愚かな層は、権力者の策動に乗せられ、戦争への加担を積極的平和主義と称する欺瞞の中に沈んでいきます。
しかし暴力は暴力でしかない、という点はあらためて強く意識されるべきでしょう。考えれば当たり前なのですが、軍事的実力の行使と平和という概念とは、絶対に相容れません。
「平和安全活動をしようにも、悪い奴らがいるからこちらも武装するしかないんだ」という防衛の論理は、敷衍すれば必ず先制攻撃ドクトリンに繋がります。
暴力装置に頼った安全保障という、これまでなぜか当然のように罷り通ってきたこの自己撞着でしかない発想は、どうしても克服されるべきものでしょう。
防災訓練に行く
戦争装置・靖国神社
高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書、2005年)を再読しました。
出版からちょうど10年の節目になるのですね。何の気なしに手にしたのですが、あらためて読むと、安保法制を巡る現代の議論に対しても示唆的だと感じたので、少し紹介しておきます。
主要な論点は極めて明快です。すなわち靖国神社は、日本の対外(侵略)戦争における戦死者を「追悼」するよりもむしろ「顕彰」することによって、戦死者を崇高化・英雄化し、他の国民も後に続くよう促す近代的な戦争装置である、というものです。戦死を悲しむのではなく美化することで、死に対して国家的な価値付けを行ない、戦死を厭わぬどころか嬉しく本望だと感ずるような国民意識を醸成して、軍隊への動員を活性化し続ける――そのような国家の政治的意思によって貫徹され、駆動しているのが靖国神社という戦争装置なのだ、と。
靖国を巡る具体的な言説を豊富に取り上げ、歴史認識の問題や政教分離の問題にまで切り込んでいく高橋の筆は、十分に説得的だと思います。
上記の論理はさらに敷衍して適用され、一時期議論されていたような無宗教の国立追悼施設もまた、国家という政治体を背後に持つものである以上は、「追悼」から「顕彰」への横滑りを防ぎえないのではないか、と批判されるわけですが……。まあその辺については、興味のある方は実際に読んでもらえれば、というところです。
私が思うに重要なのは、このような顕彰の論理、靖国の論理が、現在の安保法制と相俟って復活してくるであろうという点です。いや、この論理は決して死に絶えたことなどなかったのですから、復活というよりは前景化・顕在化と呼んだ方がいいかもしれませんが。いずれにせよ、現政権や与党の中枢にいるような人物の口から、例えば自衛隊ないし自衛隊員の役割を感情的に美化するようなセリフが飛び出し始めたら、そら来たぞと思う程度には注意をしておくべきだと思います。
安保法制が最終的に成立し、アメリカの戦争と連動して日本が集団的自衛権を行使できるようになれば、自衛隊員の犠牲者が出る日は遠からず確実に訪れると思います。そのときこの国は、仰々しいセレモニーと国民的な美談とを用意してその死を迎えるだろうと想像されます。「国のため、国民のために一命を捧げた」といったレトリックはまだまだ有効でしょうから。しかしそれは、戦死者個人の死を周囲の者が個人として悼む仕方ではありません。それはあくまでも国家の政治的論理が準備したストーリーなのであり、そうしたストーリーを受け入れる限りにおいて、各人の死の意味は国家によって収奪されていると言うことができます。その瞬間、また靖国システムが凱歌を上げることになるわけです。
ではこのような戦争動員システムを停止させるには、どのようにすればよいのか。各自が個人としての悲しみにとどまることが肝要だ、という主旨のことを高橋は述べます。少し長くなりますが引用します。
靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としないことになる。一言でいえば、悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ。まずは家族の戦死を、最も自然な感情にしたがって悲しむだけ悲しむこと。十分に悲しむこと。本当は悲しいのに、無理をして喜ぶことをしないこと。悲しさやむなしさやわりきれなさを埋めるために、国家の物語、国家の意味づけを決して受け入れないことである。「喪の作業」を性急に終わらせようとしないこと。とりわけ国家が提供する物語、意味づけによって「喪」の状態を終わらせようとしないこと。このことだけによっても、もはや国家は人々を次の戦争に動員することができなくなるだろう。戦争主体としての国家は、機能不全をきたすだろう。
(前掲書、51頁。)
国家の大義といったものにすり寄らずに、個人的な水準に踏みとどまること――これは一見弱々しく不十分な抵抗とも感じられますが、実は相当に強力な倫理なのだと思います。「中国に対する抑止力は必要だ」という風な何やらわかったようでいてその実まったく抽象的な論に対し、「自分の息子を戦場にやりたくない」あるいは「自分は人に武器を向けたくない」といった反論は、噛み合わないミクロ目線なのではなく、純粋に切迫した個人性なのではないでしょうか。個人的なものの収奪に備えることは、戦争に対する拒否に繋がるのだと思います。
ところでここまでグダグダと書き連ねてきたことは、靖国の論理の発動を想定し、それにいかに抗していくかを主眼としたものでした。本当はそんな抵抗の必要なく、戦争遂行装置が駆動する前に止めることができるなら、それが一番なのは言うまでもありません。そのためにも今、喫緊の課題はやはり、一刻も早く安保法制を廃案にすることなのだと確信させられます。
奈良公園に行く
今日は奈良公園に行ってきました。
写真は猿沢池の畔から、国宝の興福寺五重塔を眺めたところです。パッと見涼しげですが、木陰も少なくて気温はヤバイです。景色は素晴らしいんですけどね......。
美味い天麩羅に挑戦
連休で時間的にも精神的にも余裕がありますので、今夜は天麩羅作りに挑戦してみました。
美味い天麩羅を揚げるのは至難の業、とはよく聞きますが、それだけに一度チャレンジしてみたいと思っていたのであります。
スーパーにて茄子、ゴーヤ、エビ、シイタケ、マイタケ、イカ、アスパラ、シシトウ等、ひたすら私好みの食材のみを買い漁るという贅沢をさせていただき、満を持してキッチンに立ちましたとも。
エビの殻をむきむき、野菜どもを切りとばし、イカだけは丸のものがなかったのでお刺身用の切り身を買ってこざるを得なかったのが残念ですが、食材たちを準備して冷蔵庫に冷やしておきました。
それから最難関との呼び声高い衣にとりかかります。……これ、ネットで調べてみたら本当にいろいろなやり方があるんですね。マヨネーズを混ぜたり、炭酸水を使ってみたり。衣のサクサク食感に対する人々の情熱たるや恐るべし。今回はシンプルに、薄力粉と水と卵の白身だけを使うというやり方を採用してみました。
哀れ実験台に選ばれたのは二歳半の我が息子。彼は早く食事を済ませて寝かしてもらわなければなりませんからね。というわけで、これが実は揚げ物初挑戦の私、衣のドロッとした感触に戸惑い、跳ねる油にビビりながらも、なんとかひとつひとつ揚げていきます。さてその出来栄えは……。
結論から言えば、概ね勝利と言えるものになったようです。嫁さんから上出来という言葉を頂きましたので。子供もなんとか、うまいと言って食べてくれました。
なんだろ、食材の水気を切ったり冷やしたりとか、愚直にやったのがよかったんですかね。このところ調子の悪いIHコンロが安定して稼働してくれたのも大きい気がします。嫁さんが子供寝かしつけて戻ってきてからが本番なので、まだまだ油断はできませんが……。いずれにせよ、これからはもっと揚げ物も自分でやってみようかなと思うようになる、いい機会でした。
そうそう、衣に白身だけ使った残りの黄身は、醤油漬けというやつにしてみます。これもまた楽しみです。
では、写真でも撮っとけばよかったなあと思いつつ、ひとまずこの稿を閉じます。
再開
久しぶり……本当に久しぶりのエントリーになります。
最後のエントリーを上げたのが2013年12月のことなので、一年半もの間サボっていたことになりますね。なんか口調まで変わってたりして(笑)。
私の動向を気にかけてくださる数少ない方々にまず申し上げておくと、私自身は家族ともども元気です。とはいえ当たり前ですが、これほどの期間を置くと、その間にいろいろな変化もあります。
個人的には、以前住んでいた埼玉県を離れて地元の奈良に戻り、家業を継ぐべく自分とこの会社に入りました。
このブログにて時々その成長っぷりを報告していた我が息子は、もう二歳半になろうとしています。何かと手のかかることが増えてきているのですが、幸いにも大事なく元気に育ってくれています。
そして嫁さんのお腹の中には、第二子が宿っています。こちらも順調とのことで、予定通りに進めば11月の上旬には対面することができそうです。
とまあこんな具合で、私生活に追われることがますます増えそうなのですが、今後また機を見て、備忘録程度の日記から多少はまとまった考察まで、できるだけ書いていきたいと思っております。
縁あってこのブログに目を通してくださる方おられましたら、あらためてよろしくお願いいたします。
警察国家への道
今更だが、特定秘密保護法案が成立した。
この法律の問題点については、ぼくなんぞよりよっぽどしっかり語ってくれる人が多々いるだろうから、そちらにお任せしたい。ちょっと検索すれば済むことだ。なのでここでは、内心・内面の自由の問題に絞りたい。
この法律に賛成する人は次のようなことを言うかもしれない。これは国益を保全するためのものであり、日本国の利益に対して疾しいところのない人間であれば何ら恐れる必要はない、と。
しかしこれが問題なのだ。あちこちで指摘されているように、特定秘密の輪郭はいまだにはっきりしていない。例えば、「防衛に関し収集した電波情報、画像情報その他の重要な情報」などと言われて、その中身をはっきりと思い描ける人間がいるだろうか。この法律については一事が万事この調子、要するに何をするのが疾しいことであるのかが明示されていないわけだ。
このことが何を意味するかというと、疾しさの偏在化である。何をするにも、それが国家の機密に触れないかどうかの忖度が必要になってくるのだ。極端な話、官公庁や自衛隊基地のそばで記念写真を撮ることすら憚られるという事態にもなりかねない。現実にそこまでの取り締まりなど発生しないとしても、重要なのはそのような忖度の意識が生じさせられるということだ。これは各人の内面への侵略だ。
「秘密」という曖昧な鬼を起こさないように、国民は自分の言動に対して自ら警戒することを余儀なくされる。マスコミや評論家が、言論行為の委縮を生むとか、自主規制的なムードが生じることになると主張しているのは、決していわれのないことではない。疾しくありたくなければ、自らの振る舞いが秘密のコードに触れないかどうか常に自己検閲し、自身を律する必要がある。しかもその秘密のコードがどのように張り巡らされているのか、それ自体が秘密だというわけで、これは実に巧妙、狡猾にできている。
カントは理性によって何が正しい行いであるかを発見し、行為を律していくことが「自律」であるとし、それを道徳の理念の根本に置いたが、このような法律によって外的に強制される自己への規律は、もちろん「他律」に当たるものであり、フーコーの言う規律・訓練に近い。それがあたかも自発的な配慮であるかのように人が思い込むとき、強制された規律の内面化は完了し、個人の内的自由は滅びを迎えるということになろう。
この法律は、国民が自分の内部に一人の警察官を飼うように仕向けるものである。自発的、という擬制の下に飼い始められたそれは、やがて飼い主をこそ飼い馴らしていくことになるだろう。そのとき各人はまさに、自分自身を監視対象と措定する権力の番犬に成り果てるのだ。警察国家の理想は、警察機構の充実でも警察権力の拡大でもない。国民が自ら警察を内面化する限りにおいて、警察そのものが必要なくなる国家――これが警察国家という理念の極北である。