警察国家への道

今更だが、特定秘密保護法案が成立した。

この法律の問題点については、ぼくなんぞよりよっぽどしっかり語ってくれる人が多々いるだろうから、そちらにお任せしたい。ちょっと検索すれば済むことだ。なのでここでは、内心・内面の自由の問題に絞りたい。

この法律に賛成する人は次のようなことを言うかもしれない。これは国益を保全するためのものであり、日本国の利益に対して疾しいところのない人間であれば何ら恐れる必要はない、と。

しかしこれが問題なのだ。あちこちで指摘されているように、特定秘密の輪郭はいまだにはっきりしていない。例えば、「防衛に関し収集した電波情報、画像情報その他の重要な情報」などと言われて、その中身をはっきりと思い描ける人間がいるだろうか。この法律については一事が万事この調子、要するに何をするのが疾しいことであるのかが明示されていないわけだ。

このことが何を意味するかというと、疾しさの偏在化である。何をするにも、それが国家の機密に触れないかどうかの忖度が必要になってくるのだ。極端な話、官公庁や自衛隊基地のそばで記念写真を撮ることすら憚られるという事態にもなりかねない。現実にそこまでの取り締まりなど発生しないとしても、重要なのはそのような忖度の意識が生じさせられるということだ。これは各人の内面への侵略だ。

「秘密」という曖昧な鬼を起こさないように、国民は自分の言動に対して自ら警戒することを余儀なくされる。マスコミや評論家が、言論行為の委縮を生むとか、自主規制的なムードが生じることになると主張しているのは、決していわれのないことではない。疾しくありたくなければ、自らの振る舞いが秘密のコードに触れないかどうか常に自己検閲し、自身を律する必要がある。しかもその秘密のコードがどのように張り巡らされているのか、それ自体が秘密だというわけで、これは実に巧妙、狡猾にできている。

カントは理性によって何が正しい行いであるかを発見し、行為を律していくことが「自律」であるとし、それを道徳の理念の根本に置いたが、このような法律によって外的に強制される自己への規律は、もちろん「他律」に当たるものであり、フーコーの言う規律・訓練に近い。それがあたかも自発的な配慮であるかのように人が思い込むとき、強制された規律の内面化は完了し、個人の内的自由は滅びを迎えるということになろう。

この法律は、国民が自分の内部に一人の警察官を飼うように仕向けるものである。自発的、という擬制の下に飼い始められたそれは、やがて飼い主をこそ飼い馴らしていくことになるだろう。そのとき各人はまさに、自分自身を監視対象と措定する権力の番犬に成り果てるのだ。警察国家の理想は、警察機構の充実でも警察権力の拡大でもない。国民が自ら警察を内面化する限りにおいて、警察そのものが必要なくなる国家――これが警察国家という理念の極北である。