テロリストはどっちか

もう十年ほど前になるだろうか、飲み明かした朝にふとつけたテレビで大阪府知事選の政見放送をやっていて、横になったままぼんやりと眺めていたことがあった。喋っていたのは、かなりの高齢と見受けられる爺さんの候補者だった。ただその爺さん、年齢をものともしない国防意識と治安意識に燃える熱い国士だったようで、彼の目玉政策の一つは、阪大の核物理研究センターを拠点とした大阪核武装計画であった。それ以外にも憂国の念に衝き動かされたさまざまな政策提言をしていたように思うが、残念なことにほとんど失念してしまった。しかし一点だけは忘れようにも忘れられない。この候補者のもう一つの目玉政策である。文字通り口角泡を飛ばすといった勢いで、健康状態が心配になるほど入れ込んで話していた爺さんは、最後に一言こう言い放ったのである。

「引ったくりはこれを、テロと看做す」

もし当選していたならば、まさに暴走老人と呼称されるに相応しい政治家となっていたであろうこの候補者の理想が実現することは、もちろんなかった。しかし、一介の泡沫候補のエピソードならば笑い話にもなるが、政権与党の最高実力者の一人が、それも犯罪者ですらない公衆を指してテロリスト認定したとなれば、これはもう話の次元が違う。週末の報道番組でも頻繁に取沙汰されたが、自民党幹事長である石破茂のオフィシャルブログでの発言である。問題となっているのは石破茂ブログの11月29日の記事だ。いまだに削除されていないところからも、本人としては失言のつもりはなく、それなりの信念の下での発言だということが窺える。一応該当箇所を引用しておく。

  今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。

 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。

何をかいわんやというレベルであるが、これはアホなだけでない。言論の自由、集会の自由といった基本的な自由が一顧だにされていないことは言うまでもないが、ここでは言論の封殺に当たってセキュリティの概念が織り込まれているのが巧妙なところであり、危険なところでもある。つまり石破は、国民のごく一部に過ぎないとしても公衆が行なう政治的表現に向かって、自らの政治的主張をによって応ずるのではなく、「静穏」を対峙させるのだ。彼らの主張は公論として扱われるのではなく、ただ平穏、平和な日常のセキュリティを破る暴挙としてのみ把握される。議論の相手としてではなく、 日本の安寧を乱すセキュリティ破壊者として、議員会館前に集って政治的主張を行なう一般市民はテロリストと同一視されるわけだ。問題は当然、政治活動・政治論議といった地平から、治安維持の地平へとすり替えられることになる。担当大臣の理解もあやふやなまま強引に衆院を通過させられた法案に対する抗議は、治安紊乱行為へと位相転換され、抗議者は対話者ではなく排除の対象と化す。なにせ彼らはテロリストなのだから、必要なのは理性的な議論にあらず、セキュリティのための鎮圧活動こそが要請される、という論理が石破の発言には仕掛けられている。

馬脚を現わした、という表現がこれほど似つかわしいこともなかなかないだろう。当初から危惧されていたことではあるが、秘密保護法制は間違いなく治安維持法制になる。それどころか、国家レベルでの政治運営の手法そのものが治安維持的になっていくだろう。石破の発言はそのことの一端を明白に露呈させている。

それにしても政治家どもはいつもいつも選挙の度に、ただひたすら己の主張のみを絶叫し、多くの人々の静穏を妨げてくれるわけだからして、国会というところはテロリストの巣窟であり、政党はテロリスト養成機関なのに違いない。そして現在のところ、最多のテロリストを有し、最大規模の治安破壊を行なっているのが自民党である。とまあヨタ話はさておき、石破発言こそが、現実の政治権力を背景にしての立憲民主主義に対するテロリズムであることだけはたしかである。

 

 

追記:2013.12.03 PM 22:01

石破が例のテロリスト発言を撤回したので、一応補足しておく。

訂正については上記本文中のリンクから参照できる。

本人の説明はこちら→「お詫びと訂正

まあその後の発言からもわかるように、石破が考え方を転回させたわけではまったくない。要するに議会運営上の必要に駆られてというだけのことだ。

注意すべきは、秘密保護法制反対派の活動を、相も変わらず「一般市民に畏怖を与えるような手法」と規定し続けている点だ。反対運動を行なっている人々も、たとえ中国人・韓国人であろうが、共産党員であろうが、一般市民であることには変わりはない。しかし石破の言葉はそのことを覆い隠し、一般市民から隔離して把握されるべき危険分子の存在を示唆する。彼らが潜在的テロリストであるという石破の認識は、何ら変わっていないのだ。いや、それどころか石破発言のような言説こそが、存在しないテロリストを生み出し続けている。そしてまたそこからセキュリティの必要性とその強化が叫ばれ、公共空間はますます権力によって抑圧されるようになる。まさしくマッチポンプというやつだ。社会に放火しようとしているのは実在しないテロリストではない。石破のような奴らなのだ。