テロリストはどっちか

もう十年ほど前になるだろうか、飲み明かした朝にふとつけたテレビで大阪府知事選の政見放送をやっていて、横になったままぼんやりと眺めていたことがあった。喋っていたのは、かなりの高齢と見受けられる爺さんの候補者だった。ただその爺さん、年齢をものともしない国防意識と治安意識に燃える熱い国士だったようで、彼の目玉政策の一つは、阪大の核物理研究センターを拠点とした大阪核武装計画であった。それ以外にも憂国の念に衝き動かされたさまざまな政策提言をしていたように思うが、残念なことにほとんど失念してしまった。しかし一点だけは忘れようにも忘れられない。この候補者のもう一つの目玉政策である。文字通り口角泡を飛ばすといった勢いで、健康状態が心配になるほど入れ込んで話していた爺さんは、最後に一言こう言い放ったのである。

「引ったくりはこれを、テロと看做す」

もし当選していたならば、まさに暴走老人と呼称されるに相応しい政治家となっていたであろうこの候補者の理想が実現することは、もちろんなかった。しかし、一介の泡沫候補のエピソードならば笑い話にもなるが、政権与党の最高実力者の一人が、それも犯罪者ですらない公衆を指してテロリスト認定したとなれば、これはもう話の次元が違う。週末の報道番組でも頻繁に取沙汰されたが、自民党幹事長である石破茂のオフィシャルブログでの発言である。問題となっているのは石破茂ブログの11月29日の記事だ。いまだに削除されていないところからも、本人としては失言のつもりはなく、それなりの信念の下での発言だということが窺える。一応該当箇所を引用しておく。

  今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。

 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。

何をかいわんやというレベルであるが、これはアホなだけでない。言論の自由、集会の自由といった基本的な自由が一顧だにされていないことは言うまでもないが、ここでは言論の封殺に当たってセキュリティの概念が織り込まれているのが巧妙なところであり、危険なところでもある。つまり石破は、国民のごく一部に過ぎないとしても公衆が行なう政治的表現に向かって、自らの政治的主張をによって応ずるのではなく、「静穏」を対峙させるのだ。彼らの主張は公論として扱われるのではなく、ただ平穏、平和な日常のセキュリティを破る暴挙としてのみ把握される。議論の相手としてではなく、 日本の安寧を乱すセキュリティ破壊者として、議員会館前に集って政治的主張を行なう一般市民はテロリストと同一視されるわけだ。問題は当然、政治活動・政治論議といった地平から、治安維持の地平へとすり替えられることになる。担当大臣の理解もあやふやなまま強引に衆院を通過させられた法案に対する抗議は、治安紊乱行為へと位相転換され、抗議者は対話者ではなく排除の対象と化す。なにせ彼らはテロリストなのだから、必要なのは理性的な議論にあらず、セキュリティのための鎮圧活動こそが要請される、という論理が石破の発言には仕掛けられている。

馬脚を現わした、という表現がこれほど似つかわしいこともなかなかないだろう。当初から危惧されていたことではあるが、秘密保護法制は間違いなく治安維持法制になる。それどころか、国家レベルでの政治運営の手法そのものが治安維持的になっていくだろう。石破の発言はそのことの一端を明白に露呈させている。

それにしても政治家どもはいつもいつも選挙の度に、ただひたすら己の主張のみを絶叫し、多くの人々の静穏を妨げてくれるわけだからして、国会というところはテロリストの巣窟であり、政党はテロリスト養成機関なのに違いない。そして現在のところ、最多のテロリストを有し、最大規模の治安破壊を行なっているのが自民党である。とまあヨタ話はさておき、石破発言こそが、現実の政治権力を背景にしての立憲民主主義に対するテロリズムであることだけはたしかである。

 

 

追記:2013.12.03 PM 22:01

石破が例のテロリスト発言を撤回したので、一応補足しておく。

訂正については上記本文中のリンクから参照できる。

本人の説明はこちら→「お詫びと訂正

まあその後の発言からもわかるように、石破が考え方を転回させたわけではまったくない。要するに議会運営上の必要に駆られてというだけのことだ。

注意すべきは、秘密保護法制反対派の活動を、相も変わらず「一般市民に畏怖を与えるような手法」と規定し続けている点だ。反対運動を行なっている人々も、たとえ中国人・韓国人であろうが、共産党員であろうが、一般市民であることには変わりはない。しかし石破の言葉はそのことを覆い隠し、一般市民から隔離して把握されるべき危険分子の存在を示唆する。彼らが潜在的テロリストであるという石破の認識は、何ら変わっていないのだ。いや、それどころか石破発言のような言説こそが、存在しないテロリストを生み出し続けている。そしてまたそこからセキュリティの必要性とその強化が叫ばれ、公共空間はますます権力によって抑圧されるようになる。まさしくマッチポンプというやつだ。社会に放火しようとしているのは実在しないテロリストではない。石破のような奴らなのだ。

初めて一緒に入浴する

今日初めて息子と一緒に風呂に入った。これまでは赤ん坊用のビニールバスを使ったり、それに穴が開いて空気漏れするようになってからは大きめの洗濯バケツみたいなのを利用していたが、そろそろお試しがてら湯舟につけてみてもいいだろうということになったのだ。
息子は初めのうちは緊張し、戸惑っているようだった。不安そうな表情でキョロキョロしたりこちらの顔を眺めてきたり。何しろこれまでのこじんまりとした入浴空間から、突如として足も着かない広大な湯舟に解き放たれたのである。井の中の蛙、という表現はあんまりだが、まさに大海を知ったというところであろう。
それでも息子は元来、水も風呂も好きである。眠くて機嫌が悪いときでもなければ、顔にシャワーがかかっても泰然として動ぜず、わりと余裕な態度で入浴を満喫してくれる。保育園でも夏場など、水遊びに連れていかれるといつも笑って楽しんでいたそうである。今日も少し湯舟につかって肩からお湯をかけてあげたり、両手で支えて軽く揺らしてあげたりすると、徐々にリラックスしてきたのか笑顔も見られるようになった。嫁さんがずっと顔を覗かせていてくれたのも大きいのだろう。さすがに完全に緊張を解いて風呂を楽しむところまでは至らなかった印象だが、一度経験してしまえばもう大丈夫だろう。ぼくにとっても楽しい時間であり、そんなこんなで初の息子との入浴はかなり満足のいく感じだった。
願望も込めてのことだが、彼はきっと風呂好きになるだろうなと思うのである。

再び耳鼻咽喉科に行く

息子が三日ほど前からまた青っ洟を出し始め、一昨日には少し熱も上がった。

今日も朝ご飯を食べてからかなりの時間睡眠をとり、ああやはり体調が悪かったのかなという感じだった。ただ、正午過ぎに起きて昼食を与えた時には元気で、鼻水も止まったように見えたのでやや安心したのだが、結局青っ洟が落ちてきた。寝てる間に鼻水が固まって、わずかの間堰き止めていただけなのだろう。そこで午後、再び耳鼻咽喉科に連れていった。

熱が上がったのは一日だけだったので、そこまで心配するほどのことはないだろうと思っていたが、医者の話でも、現状は落ち着いているとのことだった。耳くそを取られ、鼻をキレイにしてもらってそれでお仕舞い。ひとまずホッとした。

しかし中耳炎というのは、わりと症状が行ったり来たりするものらしい。医者から、最近夜泣きがひどかったことはなかったかと問われ、「ひどい」がどの程度の状況を指すのか判然としないまま、だがたしかに熱が上がった前後は普段より夜泣きがひどかったと答えると、その時期には一時的に中耳炎が悪化していた可能性があると言われた。そのような変化があっても、必ず決定的に悪化して急性中耳炎まで進むというわけではなく、結構自然治癒力で持ち直すものだということである。息子は滲出性中耳炎なので、今は安定していても注意を怠らず、何か変わったことがあればすぐ病院に来るようにと言われた。

ともあれ今のところは薬を飲みつつ様子見でいいとのこと。というわけで前と同じく、鼻炎薬、痰・鼻水を切る薬、抗生剤の三つを処方されてきた。早く治ってほしいが、冬は長いなあと思うのである。

 

アイロンがけにハマりそう

いよいよ冬めいてきた。今週は真冬並みの冷え込みになるそうである。そう、洗濯物の乾かない季節である。

寒いだけなら、少し着込んで我慢すればいいだけの話だ。しかし洗濯が乾かないという事態、これはいただけない。

息子は今9ヶ月半である。飯を食えば当然汚れるし、その度に着替えである。しかも彼が通う保育園は方針として布おむつを推奨しており、のみならず保育中はおむつも着けず、早くも子供用のパンツ着用で過ごしているのである。当然、一日の汚れ物の量も飛躍的に増える。

保育園のやり方にケチをつけているわけではない。自然な感性を養うには紙おむつよりも布おむつやパンツをはかせた方がいいという考えは、十分に首肯できるものだと思える。ただ単に事実として、毎日の洗濯物の量が多いのである。

朝などはバタバタすることが不可避だし、共働きであるがゆえ、いきおい洗濯ができる時間は夕方以降に限られてくる。干すのは夜中である。無論、乾かない。それはもう、自然のやる気を問い詰めたくなるほどに乾かない。

仕方なく洗濯機の乾燥機能に頼ることになる。しかしこれがまた、「頼る」という表現が皮肉かと思えるほどに頼りない。そこそこ乾かないわけではないのだが、洗濯ネットの中心の方にある衣類などは、生乾きもいいところの湿り気を帯びたままであることがしばしばであり、しかも乾いているものも皺くちゃに縮み上がって出来上がる。それでも洗濯乾燥機の奴は、バッチリと言わんばかりにピーピーと誇らしげな終了音を鳴り響かせるのだ。

服の皺などは少々手で伸ばしてやれば、それなりに見られる状態まで回復するのだが、布おむつというのは一旦皺が寄るとなかなか復元しない。これまでは見て見ぬふりを通してきた、というか、まあええやん、程度の気分でいた。が、やはりあんまりにも皺くちゃなおむつをはかせ続けるというのも息子が不憫である。

そこでようやく本題に入るわけだが、アイロンの登場である。

実のところ、ぼくは今日に至るまでアイロンというものを使ったことがなかった。いや、小学校か中学校あたりの家庭科の授業で一度くらいは教わったかもしれない。が、覚えていない。いずれにせよ、覚えていなかったところで罪ではないくらい遠い昔の話である。母親がアイロンを当てていたことがあったような記憶もあるが、それとて追憶がなすところの記憶の捏造なのかもしれない。とかくそれほど、アイロンなるものと縁遠い人生を送ってきた。

そんな我が家になぜアイロンがあるかと言えば、当然買ったからだが、いつ買ったのかはこれまた覚えていない。一時期嫁さんが使っていた光景は頭に残っているが、このところは彼女も使わなくなり、部屋の片隅で風景に溶け込むばかりであった。

で、このほど、文字通り埃をかぶっていたアイロンをやっと救出し、アイロン台などもちろんないので新聞を重ねて台替わりに、20数年ぶり、下手すれば人生初のアイロンがけに乗り出したのである。

最初はもうおっかなびっくりである。何しろどれが何のスイッチであるかすらわからないのだ。どうやれば熱くなって、どこを押せばスチームが出るものやら、皆目見当もつかない。それでもどうのこうのやってるうちに、何だかアイロンの下の方が熱を帯びてきたので、これ幸いと皺くちゃおむつに向き合ったのである。

その結果……。

これが思いの外楽しかったのだ。いや実際、アイロンがけというのがこんなにも心躍る作業だとは考えてもみなかった。干からびた大地に生気が甦るかのように皺が伸びていく様、この寒い夜に頬を上気させてくれるあの熱。ぼくのように怠惰で、根気強い努力などクソ喰らえという人間にとっては、成果がすぐさま目に見える形で現われるというのも素晴らしい。なにせ、ついさっきまで手の施しようもなく見えた皺だらけの布が、一瞬にしてフラットになるのである。どこを押せば蒸気が出るかもそのうちなんとなくわかり始め、そこからは一気呵成という感じだった。嫁さんに夕食を告げられるまで一心不乱におむつにアイロンを当て続け、まるで何か偉大なことでも成し遂げたかのような気分でいられたのである。最初は息子のためを思って始めたはずの作業が、見事に自己目的化してしまったわけだ。まあやらないよりはやった方が遥かにいいわけで、ぼく自身のいささか肥大化した感のある精神的享楽はともかく、これで冬場の洗濯物の山を凌ぐ一つの方途は与えられたということでよしとしておこう。

ぼくは近いうちにアイロン台を買いに行くだろう。そんな予感がヒシヒシとするのである。

嫁さんに語る

積ん読の消化はわりと順調に進んでいるのだが、やはりただ読むだけでは味気ないし身になるものも少ない。

そこでまあ書評というか、感想程度のものを書こうと常々思っているのだが、なかなか踏み出せないままでいる。

一つの大きな理由としては、ぼく自身の怠惰の他に、誰に向けてどのように書くのかという点が曖昧なことが挙げられるだろう。メモ程度のつもりで始めた場末のブログといえど、潜在的にはネットの繋がっている限り全世界に開かれているわけだし、読まれることへの意識は必ずつきまとう。自意識過剰であるという思いはない。サルトルも言っているように、「書く」ことは、いつだって誰かに向けて書くことなのだ。

で、考えた結果、嫁さんに向けて書くというのが妙案ではないかと思うようになった。そうすることでまず、誰に向けてどのようにという部分が明確な焦点を結ぶし、何より嫁さんはこれまでも、ぼくの思考に対する最も鋭い批評者であり続けてきた。これからもきっとそうだろう。彼女は取り立てて人文社会科学に関するアカデミックな専門訓練を受けたわけではないが、だからこそ、ぼくがわかったつもりで読んでいる本を実際にどれほど消化しているのか、理解できているのか、そしてそれを人に説明できるのか、要するにその読書が本当に実を結んでいるかを測る貴重な試金石となってくれるに違いない。お互いの勉強にもなるだろう。

そんな風な思いから、今後は「嫁さんに語る」という形式で読書についての文章をちょくちょく書いていきたい。嫁さんよ、どうかよろしく。

 

ポスト冷戦文学としての村上春樹

嫁さんが最近、村上春樹の『1Q84』を読んでいた。彼女の母親がしばらく前から村上春樹を好んでいるらしく、「あなたも読んでみてください」といった感じで、いつだったか送られてきた荷物に『1Q84』が同梱されていた。そのままほとんど放置されていたのだが、少し前にふと手に取って読み始め、読み進めていたようである。で、そんな嫁さんから問われた。「なぜ村上春樹は海外も含めてこれほどまでに評価されているのか」と。

現代版の言文一致を確立したとも言える平明な文体、多数の共感を得るであろう繊細な(ように見える)感性の表現など、パッと思いつく要素はいくつかあるが、一頻り頭を働かせた結果、「ポスト冷戦時代の文学」としてこそ村上の小説は受け入れられ、評価されているのではないかという結論に至った。ただ、あらためて考えてみると、その程度のことはとっくの昔に誰かが言っているに違いない。そう思って軽く検索してみると、そもそも村上春樹自身がそう言っていた。

2009年11月にロイターのインタビューに答えたもので、記事はこちらである(「再送:インタビュー:村上春樹、「1Q84」で描くポスト冷戦の世界」)。この中で村上は、「ポスト冷戦の世界というもののあり方を僕らは書いていかないといけないと思う」と述べている。ところでぼくは最初、この言葉に違和感を抱いた。まさにそのように述べられていることこそ、自身がずっと以前から行なってきた営みではないのか、それを2009年に至って今さらの決意表明のように言う必然性はどこにあるのか、と。しかしあまり先走っても仕方ないので、まずは村上春樹の作品がポスト冷戦文学であるということの意味を、ごくごく概括的にではあるが見ておきたい。

一般に冷戦の終結は、「大きな物語」の終焉と関連付けて語られることが多い。大きな物語とは無論、リオタールの『ポストモダンの条件』を嚆矢として人口に膾炙した概念であるが、要するに宗教であれ革命であれ、あるいは富の拡大であれ理性の発展であれ、これまでの(主に「近代化」を達成した一部の)人間の営みに対する意味の供給源となってきた神話群である。日本における高度成長神話などはその典型と言えようが、大きな物語に依拠することができる状況にある人間は、自らの働きがその物語の完成に寄与するものであるという確信に支えられ、自身の生を積極的(依存的でもあるのだが)に意味づけすることが可能なわけだ。ところが現代社会に生きる人間は、もはやそのような物語に確信を抱くことができず、意味の立脚点を見失い、無数の細分化された小さな物語/言語ゲームへと投げ出されている、というのがリオタールが示す認識である。このような事態は、何かをきっかけに一挙に生ずるといった類のものではなく、漸進的なプロセスであり、その具体的な過程に関しては、冷戦は転回点になったとすら言えないのかもしれない。リオタールが大きな物語の解体を指摘したのは既に1979年のことであるし(ちなみに村上春樹が『風の歌を聴け』でデビューしたのも同年のことだ)、冷戦が終焉させたそれとは、特殊的にはマルクス主義的革命神話のみを指すに過ぎない。

それでもやはり、冷戦終結というのは一つのメルクマールであったと思うわけである。自由主義共産主義というイデオロギー対決の解消は、大きな物語の失効をこの上なく明らかな形で万人の目に確証してみせた。イデオロギーはもはや、価値の寄る辺となるべき大樹ではなくなったのである。自由主義の勝利の凱歌が一瞬のものであったことは、今さら言うまでもない。仮に自由主義が勝利したとして、それが生み出したのは自由主義という理念そのものからの解放であった。自由主義のイデオロギーが遍く地表を覆い尽くすというような状況には至らず、むしろイデオロギーの桎梏から解放されて自明なものとなった自由は、価値観の多様化と散乱をもたらした。まとめて言えば、ポストモダンと総称される進行途上の変化が、一挙に白日の下に露わになる契機となったのが、冷戦終結であった。

 さて本筋に戻ると、このような状況における世界、その中での人間のあり方を問い詰めなければならなくなったのが、ポスト冷戦時代の文学だというわけである。村上作品のテーマ系を眺めてみると、喪失された意味の再探究、価値の模索、不分明な状況の中に置かれてしまった主体の再確立など、 この時代状況に対応したものがその中核をなしている点は、多くの人が同意することだろう。もちろんこうしたテーマ群を一切顧慮しないという文学的方向性もありうる。典型的なポストモダン小説と言われるピンチョンの『V.』(1963年)などは、物語的主体の立ち上げなど一切念頭に置かず、大きな物語の解体そのものを小説化するような作品である。しかし少なくとも村上春樹は、そのような道を歩んでいない。『ねじまき鳥クロニクル』は、謎めいた状況に置かれた主人公による、その状況に対する意味の獲得を目指す物語だと特徴づけることができる(これは『羊をめぐる冒険』以来の常套的な手法であるが)し、『海辺のカフカ』などは自己形成をめぐる古典的なビルドゥングスロマンとしてさえ読める。ある時代的・社会的・政治的背景における人間をどのように範例化し、どのように位置づけるかという、近代小説にとってのきわめてクラシックな要請を、村上は忠実に果たしているとも言えるのである。

さてこんな風に書いてくると、結局は村上春樹自身の位置付けが曖昧になっているではないかと言われそうである。最初はポスト冷戦時代の文学と規定しておきながら、その内実に関してはポストモダン状況に即したものだと指摘し、最終的には忠実な近代小説家ということになってしまったのだから。なので、ここでもう一度整理しておきたい。

村上春樹は初期のピンチョンのようにポストモダン的作家ではないが、ポストモダン的状況における人間のあり方を問い詰めてきた作家である。意味の模索、主体性の探求といった村上作品を特徴付けるテーマ系がこの点を示している。そして彼の作品の担う意義がより鮮明になり、焦点を結ぶようになってきたのは、冷戦終結という象徴的な事象を通過したことによってである。その意味でぼくは、村上春樹の文学をポスト冷戦文学と位置付けた。彼の作品はまた、特定の時代状況に置かれた人間像の剔抉を試みるという点では、近代小説の一般的な役割も果たすものであるが、そこで描かれる人物に対しては、生きる意味や価値といった問いに関して一義的な回答を与える類のものではなく、むしろそのような答えの不在こそが中心に置かれているようにも思う。いや、答えだけでなく問いそのものの解釈までが読者に委ねられているように思われる点など、いかにも現代的と呼べるところだろう。このような姿勢は、あまりに問題を投げっ放しにするものだとも評価できるし、明瞭な希望も絶望も――つまるところ明瞭な思想を提示しない点とも相俟って、村上文学のある種の「ぬるさ」、「物足りなさ」を構成する要素であることは間違いない。まあ本人はおそらく、これについて自覚的なのだろうという気はする。自分は意味や価値や自己の探求は描くけれども、探求されている当のものについてはレディメイドに用意されているわけではなく、読者自身がそれを形作っていかねばならない――彼はそんなスタンスにずっとこだわり続けていくのかもしれない。作品に意味を与えるのは作家ではなく読者であり、村上春樹は作品を書くことによって、読者の意味形成能力を涵養しようとしている。要するにかれがやろうとしていることは、ポスト冷戦時代における啓蒙のプロジェクトである。これが村上春樹についての、ぼくの一つの解釈である。

さて話は最初の違和感に戻る。村上春樹は一貫してポスト冷戦時代に対応した文学を提示しようとしてきたとぼくは思うのだが、なぜ2009年のインタビューであらたまって「ポスト冷戦の世界」を描くことへの意志を示したか、ということである。結論から言えば、それは村上自身が抱く危機感によるのだと考えられる。同じインタビューで彼はこう語る。

 一体どういうふうに生きればいいのか、何を価値、軸として生きていけばいいのか、当然そういう疑問が出てくるが、今、特にこれという軸がない。カルトというものはそういう人たちをどんどん引き付けてゆくことになると思う。僕らができることは、それとは違う軸を提供することである。

危惧されているのは、小さな物語へと断片化した諸個人を再び回収しようとする、新たな大きな物語構築の企てであろう。それが近年では、原理主義やナショナリズムの形で現われてこようとしている点については、説明を要さない。危機感を抱くのが遅いのではないかという向きもあろうが、いずれにせよゾンビのように再生してくる大きな物語に対して、「違う軸を提供」するのが村上の明示的な意図であるわけだ。その戦略の主眼が、物語対物語の図式を生み出すというよりはむしろ、読者各人の物語形成能力を高めて大きな物語の誘惑に抗する主体性を立ち上げることにあるであろう点は、先に述べた通りである。

問題はこうしたやり方が成功しているのかどうか、ということであるが、村上春樹文学というものが完全に消費アイテムと化して流通してしまっている現状では、答えは否定的にならざるをえないだろう。単純な話、村上春樹の本を小脇に抱えながら素朴に愛国心を肯定するような精神のあり方は、いくらでも想定できる。村上文学は、それ自体が内包する男性原理などのイデオロギー性をひとまず措くとしても、新たなイデオロギーに対する解毒薬にはなっていないのである。この状態を覆すには、村上春樹はこれまでの書き方と袂を分かち、間接的・批評的な作風から自らの思想をより前面に打ち出す直接的・論争的な作風へとスタイルを変える必要があるのではないかとぼくは思うのだが、さすがに『1Q84』も最新作も読んでいないぼくが口出しできる領分は踏み越えてしまったかもしれない。ただ、ポスト冷戦時代が反動の時代としての相貌を現わしつつあるのは明瞭なように思えるので、その中で村上春樹が何をどのように描いていくのかという点だけは興味深い。時間があれば『1Q84』から読んでみようかと思う。

 

日本の救急医療は崩壊しているのだろうか?

先週末から続いていた息子の症状も、火曜あたりから発熱が治まってようやく沈静化に向かい、今朝かかりつけの医者に連れていったところ、治ったとのお墨付きを得た。発疹はまだ足に残っているものの、ウイルスの活動性・感染性はなくなっていると判断できる、とのことである。中耳炎も風邪に由来するものなので、今ではかなり改善が見られるらしい。明日からは保育園に行くことも許可された。

何のウイルスかということは結局のところよくわからなかった。前にも書いたように、突発性発疹とは明らかに違う。医者の見立てによると、症状としてははしかが最も近いそうなのだが、そうであれば必ず伴うはずの結膜炎が起こっておらず、はしかでもないらしい。謎のウイルスということである。聞いてみると、ウイルスにはごまんと種類があって、明確に診断を下せるものの方が珍しいようだ。子供なら必ずと言っていいほどかかる病気というものがあるが、そういうものはメジャーなだけに認知も理解も深まっているということなのだろう。

ともあれ治ったということであればメデタシメデタシなのだが、その過程で日本の医療の現状について考えさせられることがあった。

月曜の深夜から日付をまたいで火曜になるあたりのことである。昼間から夕方にかけても息子の体調が安定し、もう治りかけてるもんだと信じて、ぼくも嫁さんも油断していた。息子がおとなしく寝ているものと思って夕食をとり、本を読んだりしながら、揃って寝に行くまで息子の様子を窺うこともしていなかった。23時半くらいに寝室に向かうと、息子は声も出さず全身震えていた。熱を測るとその時点では38℃ほどだったが、これまで出くわしたことのない事態だったので、ぼくも嫁さんもさすがに焦り、夜間ではあるが病院に連れていこうと決めた。

ただこちらとしても、昨今の日本の救急医療体制の危機的状況というイメージは意識せざるを得ない。市のホームページを見ても、夜間受診に向かう前に県の救急相談ダイヤルに連絡することが推奨されている。そこで外出の準備はしつつ、つながりにくい番号に何度も電話をかけ直して、ようやくつながったわけである。ホームページの記載内容によると、対応してくれるのは「経験豊富な看護師」だそうで、息子の様子を細かく話して伝えた。彼女が答えるには、意識や反応がはっきりあるのなら、熱性の痙攣などではなく、熱が上がる前の通常の悪寒であり、ひとまずは様子見の対応でいいだろうということであった。

結果的には、この看護師の判断は正しかったのだと思う。しかしその場では、そうは言われても心配だ、となるわけで、ぼくと嫁さんは息子を毛布でくるみ、最寄(車で30分)の総合病院に向かった。問題はここからである。

病院の夜間入口をくぐると、守衛か何か知らないが、警備員的な制服を着た若い男性が受付を行なっていた。彼に対して息子の容体がよくなさそうなので診療を受けたい旨伝えると、返答は、今夜は小児科の医師がいないので他所を当たってくれというものだった。渡されたのは、公共機関のホームページならどこにでも載っている病院案内ダイヤルの番号をその場で手書きした紙切れ一枚。要するに門前払いを食わされたのである。

とりあえず先にその後の経過だけを記しておくと、再び家に戻る頃には、ずっと毛布にくるんで抱いていたせいか息子の震えもほとんどなくなり、ぐったりはしているが眠気と相まっていることも見て取れて、容体は落ち着いてきているようだった。それでも心配なのは変わらず、小児科の夜間診療をしている病院を案内ダイヤルで探し、電話をかけてみると、やはりベテランぽい看護師(声で判断しただけであるが)が出て、丁重に対応してくれた。その答えてくれたところによると、先の相談ダイヤルの看護師と同様、発熱の兆候となる悪寒だろうからそれ自体で重大なことはなく、水などを与えて様子を見ることでいいのではないかとのことであった。

繰り返しになるが、結果としては最初の相談ダイヤルの看護師の意見も合わせて、これは正しかったのだと思う。朝にはまた息子の熱は下がり、それから今日に至るまで順調に快方に向かった。しかし、そのように「思う」としか言えないのは、結局のところその夜のうちにまともな診療を受けることができなかったからである。

ひょっとすれば、事前に病院に確認を取らず見切り発車したぼくたちが責めを受けるのかもしれない。最終的に受けることができた応対を考えるなら、夜間診療案内ダイヤルにかけるのが先決だっただろうと言われるかもしれない。しかし根本的なことを言えば、この件の本質は、夜間とはいえ求めている者に簡単な診療さえ与えられなかったという点にある。 突き詰めれば、現在の日本社会において夜間の救急患者は、死への接近の度合いが飛躍的に高められることになっているのだ。

もちろんぼくとて、日本の救急医療体制の危機が盛んに喧伝されていることは知っている。救急車をタクシー代わりに呼びつける酔っ払いなどは、定期的に蒸し返される報道対象と言っていいだろう。しかしそのことによって、こちらが受診に対する自己抑制を求められるいわれはない。ニュースなどではよく、焦って救急車を呼んだり病院に行ったりする前に、「本当に受診する必要があるかどうか」を冷静に考えるよう促される。さて、ネットを検索するなどし、自分の症状とばっちり合致する症例を発見して、冷静に判断が下せる人は相当例外的だろう。ほとんどのケースでは、この症状は出ているがこれには該当しないとか、自信を持って判断を下せない状況に陥るのではないだろうか。あるいは完全に一致する説明があったとしても、素人が断定を下せるものだろうか。ましてそれが子供や高齢者のことであれば、判断はますます難しくなる。だからこそ、である。だからこそ医師の診察というのは必要とされるのである。病院の受付にいた警備員風の男性は、ぼくたちの息子に一瞥もくれようとしなかったように記憶している。当然、彼に見てもらったところで何の役に立つわけでもない。彼もそのことはよく自覚しているのだろうと思う。それゆえにその眼差しは拒絶の度合いを強める。残されるのは拒否される急患というわけだ。

べつにパセティックな訴えかけをしたいわけではない。ただ拒否と案内をするだけの木偶の坊を置くのなら、ロボットでも置いておくのと変わらないだろうということだ。むしろその方が、人間的対応を期待してロボット的拒否に遭うよりも、精神衛生上よっぽどマシだ。まあ下らない皮肉はそれとして、救急がいかに忙しいにせよ、夜間の受付にせめて看護師を置くというわけにはいかないのだろうか。それすら不可能だというのなら、巷に言われる救急体制の崩壊は、既に危惧ではなく現実だということなのだろう。今回の件では、うちの息子は最終的には何事もなかった。けれど、実際に緊急の対応が必要な患者がこのような拒否に遭遇する事例も多々あるだろうことは確信できる。そんなとき、受付に応急的な診断を下せる人間を配置しておくだけでも、いくらか改善されることはあると思うのだが。個別的な一度だけの経験から語っているので、全国一律にこのようなものだとまでは考えないが、患者によっては一度がすべてである。

健康増進法というわけのわからない法律が施行されたのが平成14年のことだ。基本的には医療費の抑制ということが主眼なのだろうが、この法律の第2条では、国民が「自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努め」ることが、「国民の責務」として規定されている。要するにこの国では、国民は健康であることを強いられている。ここから、不健康な奴は非国民、というところまで理路は繋がっているということをさておいても、一方で高齢者の医療費自己負担割合の増大がまた画策されるなど、日本は国民に健康を強制していながら、その健康がいかに獲得・維持されるかについては「自己責任」というわけだ。その責任が果たせない人間は切り捨てられる――そんな未来を予示するような医療体制の現状である。この問題は、不要不急の救急車利用を差し控えるといったようなモラルの問題では絶対にない。医師・看護師の訴訟リスクという論点もあるだろうが、健康増進を謳うのであれば、その点については国家が最終的な責任を負うようなシステムを構築しろと思う。まともな受診機会くらいは確保できる国であってほしいと、そう願わざるを得ないのである。