ポスト冷戦文学としての村上春樹

嫁さんが最近、村上春樹の『1Q84』を読んでいた。彼女の母親がしばらく前から村上春樹を好んでいるらしく、「あなたも読んでみてください」といった感じで、いつだったか送られてきた荷物に『1Q84』が同梱されていた。そのままほとんど放置されていたのだが、少し前にふと手に取って読み始め、読み進めていたようである。で、そんな嫁さんから問われた。「なぜ村上春樹は海外も含めてこれほどまでに評価されているのか」と。

現代版の言文一致を確立したとも言える平明な文体、多数の共感を得るであろう繊細な(ように見える)感性の表現など、パッと思いつく要素はいくつかあるが、一頻り頭を働かせた結果、「ポスト冷戦時代の文学」としてこそ村上の小説は受け入れられ、評価されているのではないかという結論に至った。ただ、あらためて考えてみると、その程度のことはとっくの昔に誰かが言っているに違いない。そう思って軽く検索してみると、そもそも村上春樹自身がそう言っていた。

2009年11月にロイターのインタビューに答えたもので、記事はこちらである(「再送:インタビュー:村上春樹、「1Q84」で描くポスト冷戦の世界」)。この中で村上は、「ポスト冷戦の世界というもののあり方を僕らは書いていかないといけないと思う」と述べている。ところでぼくは最初、この言葉に違和感を抱いた。まさにそのように述べられていることこそ、自身がずっと以前から行なってきた営みではないのか、それを2009年に至って今さらの決意表明のように言う必然性はどこにあるのか、と。しかしあまり先走っても仕方ないので、まずは村上春樹の作品がポスト冷戦文学であるということの意味を、ごくごく概括的にではあるが見ておきたい。

一般に冷戦の終結は、「大きな物語」の終焉と関連付けて語られることが多い。大きな物語とは無論、リオタールの『ポストモダンの条件』を嚆矢として人口に膾炙した概念であるが、要するに宗教であれ革命であれ、あるいは富の拡大であれ理性の発展であれ、これまでの(主に「近代化」を達成した一部の)人間の営みに対する意味の供給源となってきた神話群である。日本における高度成長神話などはその典型と言えようが、大きな物語に依拠することができる状況にある人間は、自らの働きがその物語の完成に寄与するものであるという確信に支えられ、自身の生を積極的(依存的でもあるのだが)に意味づけすることが可能なわけだ。ところが現代社会に生きる人間は、もはやそのような物語に確信を抱くことができず、意味の立脚点を見失い、無数の細分化された小さな物語/言語ゲームへと投げ出されている、というのがリオタールが示す認識である。このような事態は、何かをきっかけに一挙に生ずるといった類のものではなく、漸進的なプロセスであり、その具体的な過程に関しては、冷戦は転回点になったとすら言えないのかもしれない。リオタールが大きな物語の解体を指摘したのは既に1979年のことであるし(ちなみに村上春樹が『風の歌を聴け』でデビューしたのも同年のことだ)、冷戦が終焉させたそれとは、特殊的にはマルクス主義的革命神話のみを指すに過ぎない。

それでもやはり、冷戦終結というのは一つのメルクマールであったと思うわけである。自由主義共産主義というイデオロギー対決の解消は、大きな物語の失効をこの上なく明らかな形で万人の目に確証してみせた。イデオロギーはもはや、価値の寄る辺となるべき大樹ではなくなったのである。自由主義の勝利の凱歌が一瞬のものであったことは、今さら言うまでもない。仮に自由主義が勝利したとして、それが生み出したのは自由主義という理念そのものからの解放であった。自由主義のイデオロギーが遍く地表を覆い尽くすというような状況には至らず、むしろイデオロギーの桎梏から解放されて自明なものとなった自由は、価値観の多様化と散乱をもたらした。まとめて言えば、ポストモダンと総称される進行途上の変化が、一挙に白日の下に露わになる契機となったのが、冷戦終結であった。

 さて本筋に戻ると、このような状況における世界、その中での人間のあり方を問い詰めなければならなくなったのが、ポスト冷戦時代の文学だというわけである。村上作品のテーマ系を眺めてみると、喪失された意味の再探究、価値の模索、不分明な状況の中に置かれてしまった主体の再確立など、 この時代状況に対応したものがその中核をなしている点は、多くの人が同意することだろう。もちろんこうしたテーマ群を一切顧慮しないという文学的方向性もありうる。典型的なポストモダン小説と言われるピンチョンの『V.』(1963年)などは、物語的主体の立ち上げなど一切念頭に置かず、大きな物語の解体そのものを小説化するような作品である。しかし少なくとも村上春樹は、そのような道を歩んでいない。『ねじまき鳥クロニクル』は、謎めいた状況に置かれた主人公による、その状況に対する意味の獲得を目指す物語だと特徴づけることができる(これは『羊をめぐる冒険』以来の常套的な手法であるが)し、『海辺のカフカ』などは自己形成をめぐる古典的なビルドゥングスロマンとしてさえ読める。ある時代的・社会的・政治的背景における人間をどのように範例化し、どのように位置づけるかという、近代小説にとってのきわめてクラシックな要請を、村上は忠実に果たしているとも言えるのである。

さてこんな風に書いてくると、結局は村上春樹自身の位置付けが曖昧になっているではないかと言われそうである。最初はポスト冷戦時代の文学と規定しておきながら、その内実に関してはポストモダン状況に即したものだと指摘し、最終的には忠実な近代小説家ということになってしまったのだから。なので、ここでもう一度整理しておきたい。

村上春樹は初期のピンチョンのようにポストモダン的作家ではないが、ポストモダン的状況における人間のあり方を問い詰めてきた作家である。意味の模索、主体性の探求といった村上作品を特徴付けるテーマ系がこの点を示している。そして彼の作品の担う意義がより鮮明になり、焦点を結ぶようになってきたのは、冷戦終結という象徴的な事象を通過したことによってである。その意味でぼくは、村上春樹の文学をポスト冷戦文学と位置付けた。彼の作品はまた、特定の時代状況に置かれた人間像の剔抉を試みるという点では、近代小説の一般的な役割も果たすものであるが、そこで描かれる人物に対しては、生きる意味や価値といった問いに関して一義的な回答を与える類のものではなく、むしろそのような答えの不在こそが中心に置かれているようにも思う。いや、答えだけでなく問いそのものの解釈までが読者に委ねられているように思われる点など、いかにも現代的と呼べるところだろう。このような姿勢は、あまりに問題を投げっ放しにするものだとも評価できるし、明瞭な希望も絶望も――つまるところ明瞭な思想を提示しない点とも相俟って、村上文学のある種の「ぬるさ」、「物足りなさ」を構成する要素であることは間違いない。まあ本人はおそらく、これについて自覚的なのだろうという気はする。自分は意味や価値や自己の探求は描くけれども、探求されている当のものについてはレディメイドに用意されているわけではなく、読者自身がそれを形作っていかねばならない――彼はそんなスタンスにずっとこだわり続けていくのかもしれない。作品に意味を与えるのは作家ではなく読者であり、村上春樹は作品を書くことによって、読者の意味形成能力を涵養しようとしている。要するにかれがやろうとしていることは、ポスト冷戦時代における啓蒙のプロジェクトである。これが村上春樹についての、ぼくの一つの解釈である。

さて話は最初の違和感に戻る。村上春樹は一貫してポスト冷戦時代に対応した文学を提示しようとしてきたとぼくは思うのだが、なぜ2009年のインタビューであらたまって「ポスト冷戦の世界」を描くことへの意志を示したか、ということである。結論から言えば、それは村上自身が抱く危機感によるのだと考えられる。同じインタビューで彼はこう語る。

 一体どういうふうに生きればいいのか、何を価値、軸として生きていけばいいのか、当然そういう疑問が出てくるが、今、特にこれという軸がない。カルトというものはそういう人たちをどんどん引き付けてゆくことになると思う。僕らができることは、それとは違う軸を提供することである。

危惧されているのは、小さな物語へと断片化した諸個人を再び回収しようとする、新たな大きな物語構築の企てであろう。それが近年では、原理主義やナショナリズムの形で現われてこようとしている点については、説明を要さない。危機感を抱くのが遅いのではないかという向きもあろうが、いずれにせよゾンビのように再生してくる大きな物語に対して、「違う軸を提供」するのが村上の明示的な意図であるわけだ。その戦略の主眼が、物語対物語の図式を生み出すというよりはむしろ、読者各人の物語形成能力を高めて大きな物語の誘惑に抗する主体性を立ち上げることにあるであろう点は、先に述べた通りである。

問題はこうしたやり方が成功しているのかどうか、ということであるが、村上春樹文学というものが完全に消費アイテムと化して流通してしまっている現状では、答えは否定的にならざるをえないだろう。単純な話、村上春樹の本を小脇に抱えながら素朴に愛国心を肯定するような精神のあり方は、いくらでも想定できる。村上文学は、それ自体が内包する男性原理などのイデオロギー性をひとまず措くとしても、新たなイデオロギーに対する解毒薬にはなっていないのである。この状態を覆すには、村上春樹はこれまでの書き方と袂を分かち、間接的・批評的な作風から自らの思想をより前面に打ち出す直接的・論争的な作風へとスタイルを変える必要があるのではないかとぼくは思うのだが、さすがに『1Q84』も最新作も読んでいないぼくが口出しできる領分は踏み越えてしまったかもしれない。ただ、ポスト冷戦時代が反動の時代としての相貌を現わしつつあるのは明瞭なように思えるので、その中で村上春樹が何をどのように描いていくのかという点だけは興味深い。時間があれば『1Q84』から読んでみようかと思う。