日本の救急医療は崩壊しているのだろうか?

先週末から続いていた息子の症状も、火曜あたりから発熱が治まってようやく沈静化に向かい、今朝かかりつけの医者に連れていったところ、治ったとのお墨付きを得た。発疹はまだ足に残っているものの、ウイルスの活動性・感染性はなくなっていると判断できる、とのことである。中耳炎も風邪に由来するものなので、今ではかなり改善が見られるらしい。明日からは保育園に行くことも許可された。

何のウイルスかということは結局のところよくわからなかった。前にも書いたように、突発性発疹とは明らかに違う。医者の見立てによると、症状としてははしかが最も近いそうなのだが、そうであれば必ず伴うはずの結膜炎が起こっておらず、はしかでもないらしい。謎のウイルスということである。聞いてみると、ウイルスにはごまんと種類があって、明確に診断を下せるものの方が珍しいようだ。子供なら必ずと言っていいほどかかる病気というものがあるが、そういうものはメジャーなだけに認知も理解も深まっているということなのだろう。

ともあれ治ったということであればメデタシメデタシなのだが、その過程で日本の医療の現状について考えさせられることがあった。

月曜の深夜から日付をまたいで火曜になるあたりのことである。昼間から夕方にかけても息子の体調が安定し、もう治りかけてるもんだと信じて、ぼくも嫁さんも油断していた。息子がおとなしく寝ているものと思って夕食をとり、本を読んだりしながら、揃って寝に行くまで息子の様子を窺うこともしていなかった。23時半くらいに寝室に向かうと、息子は声も出さず全身震えていた。熱を測るとその時点では38℃ほどだったが、これまで出くわしたことのない事態だったので、ぼくも嫁さんもさすがに焦り、夜間ではあるが病院に連れていこうと決めた。

ただこちらとしても、昨今の日本の救急医療体制の危機的状況というイメージは意識せざるを得ない。市のホームページを見ても、夜間受診に向かう前に県の救急相談ダイヤルに連絡することが推奨されている。そこで外出の準備はしつつ、つながりにくい番号に何度も電話をかけ直して、ようやくつながったわけである。ホームページの記載内容によると、対応してくれるのは「経験豊富な看護師」だそうで、息子の様子を細かく話して伝えた。彼女が答えるには、意識や反応がはっきりあるのなら、熱性の痙攣などではなく、熱が上がる前の通常の悪寒であり、ひとまずは様子見の対応でいいだろうということであった。

結果的には、この看護師の判断は正しかったのだと思う。しかしその場では、そうは言われても心配だ、となるわけで、ぼくと嫁さんは息子を毛布でくるみ、最寄(車で30分)の総合病院に向かった。問題はここからである。

病院の夜間入口をくぐると、守衛か何か知らないが、警備員的な制服を着た若い男性が受付を行なっていた。彼に対して息子の容体がよくなさそうなので診療を受けたい旨伝えると、返答は、今夜は小児科の医師がいないので他所を当たってくれというものだった。渡されたのは、公共機関のホームページならどこにでも載っている病院案内ダイヤルの番号をその場で手書きした紙切れ一枚。要するに門前払いを食わされたのである。

とりあえず先にその後の経過だけを記しておくと、再び家に戻る頃には、ずっと毛布にくるんで抱いていたせいか息子の震えもほとんどなくなり、ぐったりはしているが眠気と相まっていることも見て取れて、容体は落ち着いてきているようだった。それでも心配なのは変わらず、小児科の夜間診療をしている病院を案内ダイヤルで探し、電話をかけてみると、やはりベテランぽい看護師(声で判断しただけであるが)が出て、丁重に対応してくれた。その答えてくれたところによると、先の相談ダイヤルの看護師と同様、発熱の兆候となる悪寒だろうからそれ自体で重大なことはなく、水などを与えて様子を見ることでいいのではないかとのことであった。

繰り返しになるが、結果としては最初の相談ダイヤルの看護師の意見も合わせて、これは正しかったのだと思う。朝にはまた息子の熱は下がり、それから今日に至るまで順調に快方に向かった。しかし、そのように「思う」としか言えないのは、結局のところその夜のうちにまともな診療を受けることができなかったからである。

ひょっとすれば、事前に病院に確認を取らず見切り発車したぼくたちが責めを受けるのかもしれない。最終的に受けることができた応対を考えるなら、夜間診療案内ダイヤルにかけるのが先決だっただろうと言われるかもしれない。しかし根本的なことを言えば、この件の本質は、夜間とはいえ求めている者に簡単な診療さえ与えられなかったという点にある。 突き詰めれば、現在の日本社会において夜間の救急患者は、死への接近の度合いが飛躍的に高められることになっているのだ。

もちろんぼくとて、日本の救急医療体制の危機が盛んに喧伝されていることは知っている。救急車をタクシー代わりに呼びつける酔っ払いなどは、定期的に蒸し返される報道対象と言っていいだろう。しかしそのことによって、こちらが受診に対する自己抑制を求められるいわれはない。ニュースなどではよく、焦って救急車を呼んだり病院に行ったりする前に、「本当に受診する必要があるかどうか」を冷静に考えるよう促される。さて、ネットを検索するなどし、自分の症状とばっちり合致する症例を発見して、冷静に判断が下せる人は相当例外的だろう。ほとんどのケースでは、この症状は出ているがこれには該当しないとか、自信を持って判断を下せない状況に陥るのではないだろうか。あるいは完全に一致する説明があったとしても、素人が断定を下せるものだろうか。ましてそれが子供や高齢者のことであれば、判断はますます難しくなる。だからこそ、である。だからこそ医師の診察というのは必要とされるのである。病院の受付にいた警備員風の男性は、ぼくたちの息子に一瞥もくれようとしなかったように記憶している。当然、彼に見てもらったところで何の役に立つわけでもない。彼もそのことはよく自覚しているのだろうと思う。それゆえにその眼差しは拒絶の度合いを強める。残されるのは拒否される急患というわけだ。

べつにパセティックな訴えかけをしたいわけではない。ただ拒否と案内をするだけの木偶の坊を置くのなら、ロボットでも置いておくのと変わらないだろうということだ。むしろその方が、人間的対応を期待してロボット的拒否に遭うよりも、精神衛生上よっぽどマシだ。まあ下らない皮肉はそれとして、救急がいかに忙しいにせよ、夜間の受付にせめて看護師を置くというわけにはいかないのだろうか。それすら不可能だというのなら、巷に言われる救急体制の崩壊は、既に危惧ではなく現実だということなのだろう。今回の件では、うちの息子は最終的には何事もなかった。けれど、実際に緊急の対応が必要な患者がこのような拒否に遭遇する事例も多々あるだろうことは確信できる。そんなとき、受付に応急的な診断を下せる人間を配置しておくだけでも、いくらか改善されることはあると思うのだが。個別的な一度だけの経験から語っているので、全国一律にこのようなものだとまでは考えないが、患者によっては一度がすべてである。

健康増進法というわけのわからない法律が施行されたのが平成14年のことだ。基本的には医療費の抑制ということが主眼なのだろうが、この法律の第2条では、国民が「自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努め」ることが、「国民の責務」として規定されている。要するにこの国では、国民は健康であることを強いられている。ここから、不健康な奴は非国民、というところまで理路は繋がっているということをさておいても、一方で高齢者の医療費自己負担割合の増大がまた画策されるなど、日本は国民に健康を強制していながら、その健康がいかに獲得・維持されるかについては「自己責任」というわけだ。その責任が果たせない人間は切り捨てられる――そんな未来を予示するような医療体制の現状である。この問題は、不要不急の救急車利用を差し控えるといったようなモラルの問題では絶対にない。医師・看護師の訴訟リスクという論点もあるだろうが、健康増進を謳うのであれば、その点については国家が最終的な責任を負うようなシステムを構築しろと思う。まともな受診機会くらいは確保できる国であってほしいと、そう願わざるを得ないのである。