運動会に参加する

今日は息子の保育園で運動会が開催されたので、朝から行ってきた。

前日から天気が危ぶまれ、実際保育園に着いた頃には小雨が落ちていたので、屋内のホールで開催かという話もあったみたいなのだが、幸いにも持ち直し、無事に園庭で行なわれることとなった。

0歳である息子の登場は一度きりで、最初の歌の後すぐの「赤ちゃん体操」というやつだ。もちろん乳児が一人で体操できるわけはなく、親子参加のプログラムであり、ぼくも息子とともに参加してきた。

白線でトラックが引かれた中央のスペースに茣蓙を敷き、親子で幾種類かの運動を行なうというのが赤ちゃん体操である。三角にした膝の上に子供を乗せてリズムに合わせて揺らし、最後にはストンと落したり、足の上に寝転ばせてお腹や背中をマッサージしたり、脛に乗せた子供をやはりリズムに合わせて揺らして、足で跳ね上げて一回転させたり。文字にしてみるとそれだけのことなのだが、特に一回転させるというやつ、これがなかなか難しいのである。

息子をクラスに送り届けた時に、担任の保育士さんから一通りやり方を指導してもらったが、最初の一回は危うく息子を放り捨てるところであった。足で跳ね上げることばかりに気を取られて手の方が疎かになり、揚句力が入り過ぎて、ぼくの頭上を通過し、遥か彼方に飛んでいってしまうかと思った。なんとか手を放すことなく引き留めて事無きを得たが、下手すれば大怪我だったかと考えるとゾッとしない。本人は特に怯えるでもなく、意外とケロリとした顔をしていたが……。

他の一部の運動でも同様なのだけれど、力任せにしないことはもちろんとして、とりわけ子供を持つときの順手と逆手の切り替えをスムーズにすることができれば、運動の全体もまたスムーズにいくのだと思う。そしてこういった事柄が大抵そうであるように、細部の動きを意識し過ぎると逆にますます混乱し、手をどう使ったものか戸惑いだしてしまうのだ。ぼく個人の不器用さを差し引くとして、要は慣れということに尽きるのだろう。意識しなくても体が動くようになれば上々である。息子が試行錯誤を繰り返しながら少しずつ身体運用を覚えていっているのと同様に、そんな彼としっかり遊びたければぼく自身も新たな身体運用法を獲得しなければならない、そんなことを痛感した一幕だった。

結局このクルリと回転させる運動は本番でもうまくはいかず、左右の親御さんがやっているのを横目でチラ見しながらようやくついていくような塩梅だった。まあ結構楽しかったのでよしとする。

これで息子は御役御免となり、0歳児のスペースに戻って自由に過ごしていた。それも途中で引っ込んで、寝たりお弁当を食べさせてもらったりしていたようである。このところ青っ洟を引いたり目ヤニがでたり調子がよろしくなさそうなので、ゆっくりできたのならそれに越したことはない。

ぼくもあとは年上の児童たちの運動を眺めるだけということになった。ところでここ最近急激に冷えてきたのを実感するわけで、安物のジャージに上着を一枚羽織っただけの姿でじっと観戦していると、日差しの無い時間帯には肌寒いくらいだった。

他の園児たちは、やはり年齢が上がるにつれてさすがという感じで、嫁さんが担任している年長クラスになると、1メートル50はあろうかという衝立をよじ登って越えたり、ぼくも嫁さんもできない逆上がりを難なくこなしたり、できることとできないことの個人差はもちろんあるのだが、総じて大したものだった。我が息子もそんな風に成長してくれることを願う。

ただ同時に、「何ができるか」は最終的に核心的な事柄ではないのだとも思う。重要なのは、与えられた条件において自らを陶冶することであろう、と。その上で初めて、所与の条件に対して何ができたかを問うことによってこそ、成長という言葉の本義が現れる。例えば足の無い子供は衝立を登ることはできないだろう。しかしそのことによって、彼ないし彼女が欠格者と判断されるようなことはあってはならない。その意味で、「健全な身体に健全な精神が宿る」という言葉には、絶対に警戒を怠ってはならないのだ。とりわけ「健全な身体」なる表現に、五体満足で他人よりも強く速く筋力や跳躍力のある身体というようなことだけが含意されているのならば、そんなものは願い下げである。そのような身体に必ずしも健全な魂が宿るものかどうか、昨今の柔道界を眺めただけで一目瞭然、判断は下せるだろう。そもそも体が健全であるだけで、どこからともなく降ってくるかのように精神も健全になるとする考え方の、いかに受け身、受動的、停滞的なことか。それよりも次のようなプラトンの言葉を掲げるべきだと思う。「身体は、それがすぐれた身体であっても、自身のその卓越性によって魂をすぐれた魂にするというものではなく、むしろ反対に、すぐれた魂がみずからのその卓越性によって、身体をできるかぎりすぐれたものにするものなのだ」(『国家』403d)。できるかぎり、というところがミソだ。この言葉は、「健全な魂が健全な身体を作る」といった具合に、例の慣用句を倒立させただけのものと理解すべきではなく、自らが置かれた条件に対峙することで最善を模索していく、能動的な成長運動を指し示すものとぼくは読みたい。まあプラトンは別のところで、国家の守護者たるに相応しくない不健康な生まれつきの子供はこっそり殺しちまえ、とか書いてるので、いいとこ取りするのもフェアでないと言われるかもしれないが、それでも先に引用した一節は、殺してしまえというような断言とは異なって、解釈に開かれた豊かさを持っている。そして健全さとは、身体的にであれ知能的にであれ、一律の基準に照らして判断される類のものではなく、多様であること、異なっていることに対して怯まない心身のあり方のことだと思うのだが、どうだろうか。

すっかり運動会から離れてしまったが、話を元に戻すと、午後一番のリズム運動を一通り見終わってから、息子を連れて帰ってきた。昼食を与えるときも相変わらずご機嫌ナナメな様子だったが、お風呂に入れてから一緒に昼寝し、すべての日程を終えた嫁さんが帰ってくる頃には、それなりに陽気さを取り戻していたのであった。