アイロンがけにハマりそう

いよいよ冬めいてきた。今週は真冬並みの冷え込みになるそうである。そう、洗濯物の乾かない季節である。

寒いだけなら、少し着込んで我慢すればいいだけの話だ。しかし洗濯が乾かないという事態、これはいただけない。

息子は今9ヶ月半である。飯を食えば当然汚れるし、その度に着替えである。しかも彼が通う保育園は方針として布おむつを推奨しており、のみならず保育中はおむつも着けず、早くも子供用のパンツ着用で過ごしているのである。当然、一日の汚れ物の量も飛躍的に増える。

保育園のやり方にケチをつけているわけではない。自然な感性を養うには紙おむつよりも布おむつやパンツをはかせた方がいいという考えは、十分に首肯できるものだと思える。ただ単に事実として、毎日の洗濯物の量が多いのである。

朝などはバタバタすることが不可避だし、共働きであるがゆえ、いきおい洗濯ができる時間は夕方以降に限られてくる。干すのは夜中である。無論、乾かない。それはもう、自然のやる気を問い詰めたくなるほどに乾かない。

仕方なく洗濯機の乾燥機能に頼ることになる。しかしこれがまた、「頼る」という表現が皮肉かと思えるほどに頼りない。そこそこ乾かないわけではないのだが、洗濯ネットの中心の方にある衣類などは、生乾きもいいところの湿り気を帯びたままであることがしばしばであり、しかも乾いているものも皺くちゃに縮み上がって出来上がる。それでも洗濯乾燥機の奴は、バッチリと言わんばかりにピーピーと誇らしげな終了音を鳴り響かせるのだ。

服の皺などは少々手で伸ばしてやれば、それなりに見られる状態まで回復するのだが、布おむつというのは一旦皺が寄るとなかなか復元しない。これまでは見て見ぬふりを通してきた、というか、まあええやん、程度の気分でいた。が、やはりあんまりにも皺くちゃなおむつをはかせ続けるというのも息子が不憫である。

そこでようやく本題に入るわけだが、アイロンの登場である。

実のところ、ぼくは今日に至るまでアイロンというものを使ったことがなかった。いや、小学校か中学校あたりの家庭科の授業で一度くらいは教わったかもしれない。が、覚えていない。いずれにせよ、覚えていなかったところで罪ではないくらい遠い昔の話である。母親がアイロンを当てていたことがあったような記憶もあるが、それとて追憶がなすところの記憶の捏造なのかもしれない。とかくそれほど、アイロンなるものと縁遠い人生を送ってきた。

そんな我が家になぜアイロンがあるかと言えば、当然買ったからだが、いつ買ったのかはこれまた覚えていない。一時期嫁さんが使っていた光景は頭に残っているが、このところは彼女も使わなくなり、部屋の片隅で風景に溶け込むばかりであった。

で、このほど、文字通り埃をかぶっていたアイロンをやっと救出し、アイロン台などもちろんないので新聞を重ねて台替わりに、20数年ぶり、下手すれば人生初のアイロンがけに乗り出したのである。

最初はもうおっかなびっくりである。何しろどれが何のスイッチであるかすらわからないのだ。どうやれば熱くなって、どこを押せばスチームが出るものやら、皆目見当もつかない。それでもどうのこうのやってるうちに、何だかアイロンの下の方が熱を帯びてきたので、これ幸いと皺くちゃおむつに向き合ったのである。

その結果……。

これが思いの外楽しかったのだ。いや実際、アイロンがけというのがこんなにも心躍る作業だとは考えてもみなかった。干からびた大地に生気が甦るかのように皺が伸びていく様、この寒い夜に頬を上気させてくれるあの熱。ぼくのように怠惰で、根気強い努力などクソ喰らえという人間にとっては、成果がすぐさま目に見える形で現われるというのも素晴らしい。なにせ、ついさっきまで手の施しようもなく見えた皺だらけの布が、一瞬にしてフラットになるのである。どこを押せば蒸気が出るかもそのうちなんとなくわかり始め、そこからは一気呵成という感じだった。嫁さんに夕食を告げられるまで一心不乱におむつにアイロンを当て続け、まるで何か偉大なことでも成し遂げたかのような気分でいられたのである。最初は息子のためを思って始めたはずの作業が、見事に自己目的化してしまったわけだ。まあやらないよりはやった方が遥かにいいわけで、ぼく自身のいささか肥大化した感のある精神的享楽はともかく、これで冬場の洗濯物の山を凌ぐ一つの方途は与えられたということでよしとしておこう。

ぼくは近いうちにアイロン台を買いに行くだろう。そんな予感がヒシヒシとするのである。