大政翼賛会と立憲主義

岩波講座『アジア・太平洋戦争』二巻「戦争の政治学」を読んでいて、大政翼賛会の成立過程で違憲問題が生じていたことを知った。

大政翼賛会といえば、対米開戦を控えた時期に近衛文麿の主導で結成され、戦前日本の全体主義化を象徴する組織というイメージであるし、それは概括的な認識としては間違いでないと思う。しかしその翼賛会を巡って違憲論が出されていたというのが、意外な感もあって興味深い。とりあえず引用する。

違憲論というのは、一国一党、つまり独裁政党による政治体制は、天皇から政権の選択権を事実上奪うことになり、すべてを超越した存在であるはずの天皇の地位を脅かすので憲法違反となるという議論であり、法律学の立場からは憲法学者の佐々木惣一京大教授、いわゆる国体明徴論者の立場からは極右諸派(当時は愛国団体などと呼ばれた)代表として準備会に参加した井田磐南が主張した。

 

古川隆久「戦時議会と戦後議会」『アジア・太平洋戦争』二巻、岩波書店、2005年、40頁。

すべてを超越しているはずの天皇が、政権選択の幅ごときで何を脅かされるのか、と茶化したくなる気持ちは措いておく。ここで重要なのは、たとえ天皇を根拠として持つものであったとしても、大政翼賛会組織への反対論を機能させているのが、限定的ではあるが立憲主義だという点である。

立憲主義とは、言うまでもなく、憲法に基づいて統治権力の横暴・逸脱を規制する理念である。近代的立憲主義の概念は普通、権力に対する個人の自由や権利の防衛を想定する。その点、大日本帝国憲法においては、主権者は国民ではなく天皇であり、大政翼賛会への反対という文脈でも、配慮されているのは国民個人の権利などではなく、ただ天皇の権限への抵触のみが取沙汰されているわけで、この事例を近代的立憲主義の完全な発動だと看做すことには問題があるかもしれない。とはいえ、配慮されるのが天皇の権利だけだとしても、この事例は曲がりなりにも憲法を備えた国家において、憲法そのものがどれほど規制的に機能しうるかの一例にはなっているだろう。

結果として、大政翼賛会は政党ではなく公事結社という形態をとり、その発会式でも綱領や政策の発表はなされないまま、組織としては曖昧な位置づけを余儀なくされた。立憲的な枠組みが、明確な一党独裁の現出を押しとどめたのである。

古川は、先に引用した部分の後段で、さらに次のように書く。「大日本帝国憲法が日本の全体主義化を防ぐ上で法的には最も有効な手段となった」(42頁)と。

これはあくまでも形式的な議論であるし、現実問題としては、日本が軍国ファシズムの道を一瀉千里に辿っていくことになるという見方は、大枠で正しいと思う。しかし、そのような時期の日本の統治権力ですら、憲法という規制力の前に立ち止まらざるをえなかった、ということは重視されるべきであろう。

当然だが、戦前の日本のシステムの中にもマシな部分があったなどと擁護したいわけではなく、いわんや明治憲法がよい憲法であったと言うつもりは毛頭ない。

ただ、憲法による政治権力や統治機構への拘束がいかに強力なものでありうるかというのは、あらためて見直されてよい、というか見直されるべきだと言いたいのである。大日本帝国憲法ですら、形式的・原理的にはその効力を発揮しえたのだ。まして現行憲法における主権者は天皇などではなく国民であり、権力の横暴に対する保護の対象となるのも、国民個人であり、その権利と自由である(同時に「国民」ならざる者への普遍的な権利保障も視野に入っていなければならないとは思うが)。権力即ち悪という見方は一面的に過ぎるだろうし、フーコー的な見方をすれば人間関係のあらゆる領域に権力構造が現出するということにもなろうが、少なくとも政治権力の想定されうる横暴への対抗力として、立憲主義は存在するし、それは今や、日本国民であれば「我々」と表象しうるところの、我々の力なのである。

 

 

ところで、この主権者である国民自身が、その大多数の同意の下に、主体的に逸脱を選択するという事態もまた、想定可能である。このとき、民主主義と立憲主義という二つの原理が相克することになるわけだが、この両者の間に潜在する緊張関係については、また暇とやる気のある時に書く。