政治家の資質

少し前のことになるが、麻生のナチス発言問題の際に、ある外国人記者が『報道ステーション』の取材を受けていた。もう名前も所属も忘れてしまったが、取材に対するその記者の回答は概ね次のようなものであった。

「公の場でのナチスに関する言及は、否定的な教訓としてのみ許される。発言者はそれが否定的な教訓であるという点を明示しなければならない。麻生氏は、その点をはっきりさせなかったのがいけなかったのではないか」

ここで議論の対象になっているのは、個人の政治的信念や発言の真意といったレベルではい。ナチス=異論の余地のない悪、という一般的なコンセンサスが成立している(ように見える)社会の公共空間における身振り、要するに政治的処世術のレベルに属する事柄が問われているのである。この場合、麻生がナチスのやり方を支持しているのかどうか、ということは実は本質的な問題ではない。暗黙のルールに基づいて要請される所作を果たしていない点が、批判的に捕捉されることになる。

「政治家の資質」問題は、この点から演繹される側面を持つ。それは、一見そう思えるほど道義性や道徳性、個人の信念体系をめぐる問題なのではなく、むしろ政治家の利害計算能力に関わる問題だということが明らかになるであろう。

ナチスは批判さるべきである、という合意が浸透している社会において、真意はどうであれその合意から逸脱する発話をなすことは、自らの不利益になる。有り体に言って、「損」なのだ。そのような発言やそれをめぐる評価は、例えば選挙の際に不利に働く。麻生に即して見れば、彼は選挙に強い政治家であるけれども、十分な支持基盤のない政治家であれば、発言一つが死活問題になりかねない。選挙に強い政治家であっても、現場で活動する者が釈明や弁護など余計な負担を強いられることは確実である。さらに影響が及ぶのは個人の選挙戦という部分に限定されない。閣僚であれば当然ダメージは内閣全体に及ぶし、首相の任命責任も視野に入ってくる。そうした政治家を擁する政党もまた、疑問に付されることになるだろう。これは他者に迷惑が及ぶというだけのことではなくて、政党や内閣に傷がつくのであれば、それらを通じて果たされるはずの政治家個人の理念や政策の実現、その実現可能性が大なり小なり縮減されるということである。事態は巡り巡って、自らの不利益というところに帰着する。そしてこれらの結果として懸念されることになるのは、自分一人の利益と不利益さえ衡量できない政治家が、さらに複雑さを増す国民的な利害(とりわけ外交の局面では「国益」と呼ばれる)について、マトモに計算できるのかということである。「政治家の資質」は、この計算力について主題化されるのだ。

麻生発言の後もなお安倍内閣の支持率が高水準を維持していること、麻生個人の人気も衰えたようには見えないこと、自民党の政党支持率が堅調であること――これらはまさに結果論の材料となるに過ぎない。利害計算能力において要求されるのは、それらが揺らいでしまう可能性への考慮だからである。仮に麻生が、安倍政権や自らの政治基盤に自信を持ち、影響があっても重大なものにはならないと予見した上で発言したのだとすれば、今度はなぜ不要のリスクを冒してまでナチスに言及する必要があったのか、その点の考慮が問われる。リスクマネージメントはもちろん利害計算能力の一環である。むしろ逆に、麻生が真正のナチス主義者、あるいは少なくともナチスにシンパシーを感じる政治家であれば、発言は個人の信念体系に立脚するものとなり、利害計算上の合理性は問題にならないだろう。当然そうなれば今度は、別の問題が前景化してくることになるだろうが。

つまり一つの結論として、社会的コンセンサスからの逸脱が喚起する「政治家の資質」問題とは、暗黙のルールに本心から従うか否かをめぐる規範性の問題なのではなく、その逸脱の影響を測定できているかどうかをめぐる計算能力の問題である。ゆえに俎上に載せられているのは、道徳性や価値観への評価ではない。以上の議論から問うならば、「麻生はナチスか?」、「麻生は悪か?」、「麻生は反社会的か?」ということではなく、「麻生はバカか?」である。

 

言うまでもなく、ここに記したのは「政治家の資質」についての一つの見方でしかない。同じ問題が、道徳や正義をめぐって立論されることもあるだろう。

社会的コンセンサスをあまり自明視するのも、多くの場合単なる保守主義に過ぎない。

それどころかコンセンサスというのは常に政治的闘争の前線であり、マイノリティの政治的アクターは、既存のコンセンサスに対する攪乱を基本的指針にすら据えるであろう。その場合、既存のコンセンサスからの逸脱は彼/彼女の信念体系に拠って立つだけでなく、「マイナー」な問題を一般に可視化することによって広範な議論を立ち上げるという意味で、利害計算とも両立するものになるだろう。

それから最後に、「ナチス=悪」というテーゼほど強いコンセンサスが成立している議題も、まず他にないだろうことを指摘しておきたい。本当はそのことについて考えたかったのだが、話が別の方向に行ってしまった。ナチスと根源悪については次に書く。