ナチスと根源悪

善悪二元論が不毛であるというのは、今や一般論レベルの認識になってきた観があるが、それでもやはりナチスを善であるとして擁護する者は、相当に特殊な思想の持ち主と看做されるだろうし、公的領域からは排除されるに違いない。要するに、ナチスは悪である。これは確立した社会的コンセンサスともなっている。

しかし悪であるならば、それはどのような悪であるのかが問われねばならない。「根源悪」という観念からこの問いを考察したのが、バディウである。少し長くなるが引用する。

根源的な〈悪〉 という観念は(少なくとも)カントに遡因するが、その現代版は体系的なやり方で、ある「事例」をその拠り所としている。すなわちナチスによるヨーロッパでのユダヤ人絶滅がそれである。私たちは事例という語を軽率に用いることをしない。一般的に事例とは反復ないし模倣されるべき模範を指していることは言うまでもない。ナチスによるユダヤ人絶滅に関して現代の倫理は、是が非であってもこの虐殺の模倣や反復を阻止する必要性を指示することで、根源的な〈悪〉を範例化している。あるいは、より精確に言えば、この根源的な〈悪〉の非-反復がさまざまな状況をめぐるあらゆる判断にとっての規範となるよう、この倫理は指示するのだ。したがってそこにあるのは、犯罪についての「範例」、否定-陰画的な範例なのだ。ところが、こうした範例の規範的機能は依然として消え去りはしない。つまりナチスによるユダヤ人絶滅が根源的な〈悪〉であるのは、それが、純粋でシンプルな〈悪〉についての唯一無二の、またその意味で超越論的な、あるいは言語では表現しえない、判断基準を私たちの時代に与えているという点においてである。レヴィナスの〈神〉は他性の価値評価に措かれるが(〈他者〉が共軛不可能な尺度としての〈まったく-他なるもの〉とされるという意味で)、ナチスによるユダヤ人絶滅は歴史的諸状況の価値評価に措かれるのだ(〈悪〉が共軛不可能な尺度としての〈まったき-悪〉とされるという意味で)。

 

アラン・バディウ『倫理――〈悪〉の意識についての試論』(長原豊・松本潤一郎訳)、河出書房新社、2004年、106-107頁。

 「歴史的諸状況の価値評価に措かれる」というのは、歴史的文脈の中に位置づけられ、評価されるという意味ではない。それとは逆に、ナチスの「事例」は他の諸々の歴史的事象を評価する判断の指針として機能することになる、ということだ。それが「範例化」であり、「超越論化」である。あるいは単に超越と言ってもいいだろう。バディウによれば、このことが根源悪の逆説を生む。一方でナチスとその虐殺は、「絶えず引き合いに出され、比較され、世論に〈悪〉への警戒を生み出すことが望まれているあらゆる情勢についての見取り図の作成を〔……〕引き受けさせられてもいる」。その限りにおいて、ナチスは常に現実を診断する比較対象、特権的な参照項となっている。ところが他方でそれは、「思考不能なもの、言語を絶したもの、これ以前にも以後にも考えられないようなもの」として絶対化され、「唯一無二の特異な出来事であって、およそどのような事態であれ、この出来事と比較することは冒瀆だということを想起することもまた執拗に強いられる」ということになる。

この逆説は、実際、根源的な〈悪〉の逆説でもある(また実を言えば、この逆説は現実あるいは概念のあらゆる「超越論化」に随伴する逆説でもある)。尺度‐基準を与えるものは計測不能なものでなければならない。ところが他方でそれは、絶え間なく計られていなければならない。まさしく虐殺は、この現代が被り得るあらゆる〈悪〉に尺度-基準を与えるもの、したがってそれ自体としては尺度-基準を超え出るものであると同時に、この虐殺を絶え間なく計ることによって〈悪〉の自明性という観点から判断されねばならないとされているあらゆる事態が比較されねばならない当のものでもある。至高の否定的事例である限りにおいて、この犯罪は模倣不能だが、またどのような犯罪もその模倣であるような犯罪、それがナチスによるユダヤ人絶滅なのだ。

 

同上、108頁。

人間は神そのものではない、それどころか神との比較など考えられることもできない矮小な存在であるが、同時に神の御前では皆が、個別具体性を捨象された「神の似姿」でもある。同様にあらゆる政治的犯罪は、ナチスならざる「ナチスの似姿」として把握されることになるわけだ。 ゆえにバディウは言う、根源悪ないし絶対悪、「この主題は〔……〕宗教に属しているのだ」と。

対象のこのような把握が惹起する最大の問題は、現実の特定の歴史的地点、地理的地点で生じている事態が、それ自体の具体性から遊離してしまうことだ。ナチスという絶対的な特異性の元に収斂させられることによって、個別事態の特異性が不可視化されてしまう。それらは、固有の文脈を剥奪されてしまうことになるのだ。そこから生じるのは、脱歴史化された形象による知の支配であり、量産型ヒトラーの氾濫であろう。

〈悪〉のこうした宗教的絶対化の企てが一貫性のないものであることはすでに見た。この企ては、思考に乗り越え難い「限界」を突きつけるあらゆる企てにも似て、恫喝的ですらある。というのも模倣しえない現実とは、実は、つねなる模倣だからだが、至る所にヒトラーを見つけ出そうとするあまりに、ヒトラーが死んでいることも、私たちの眼前に起きていることが〈悪〉の新しいさまざまな特異性を出来させていることも、ともに忘れられてしまっている。

 

同上、110頁。

「歴史は繰り返す」というのは、無害化された一般論的な道徳訓となり、実質的な対象を欠いたシュミュラークル的な言辞と化す。それが悲劇として繰り返されているのか、喜劇として繰り返されているのか――そもそも何かが繰り返されているのか、という点への吟味を伴わない、知的衰退が進行するのである。実質なき反復の拡散こそ、シミュラークルの機能だったはずだ。「フセインは現代のヒトラーだ」と叫ぶことは、もはや歴史的評価でも政治的考察を示すものでもなく、単に利害に奉仕する広告戦略のようなものになってしまうのである。

つまり端的に言って、根源悪なるものの措定は、歴史を不可能にするのである。それはまた裏面として(むしろ表の面か)、絶対的な善の想定を不可欠に伴い、絶対悪が指示され続ける限りにおいて、この超越的な絶対善の観念を機能させる。そのときあらゆる政治的闘争は、実際には絶対性の帰属をめぐる宗教的闘争に還元されることになるのだ。こうしたア・プリオリな超越に依拠せず、その手前にとどまることを要求するバディウの主張は、首肯できるものである。

さまざまな真理がその特異な孔を穿つのは、たださまざまな世論が織りなす網の目においてのみなのだ。私たちは、すべからく、通じ-分かち合わねばならず、見解を表明せねばならない。私たちを主体への生成変化に曝すのは、あるがままの私たち自身なのだ。私たち自身の歴史以外にいかなる〈歴史〉も存在せず、来るべき真の世界などもまた存在しない。世界である限りでのこの世界は真-偽の此岸に存在しているのであり、またそこに留まるだろう。〈善〉の一貫性の虜になった世界などないのだ。世界は〈善-悪〉の此岸に存在し、そしてそこに留まるだろう。

 

同上、144頁。

ここで表題に即して「ナチスは根源悪か」と問うなら、答えは問われた者次第、ということになるだろう。ナチスの宗教的絶対化に利害を見出す者は、ナチスは絶対悪であると言い続けるのだろう。ただ確実に言えるのは、「ナチスは根源悪である」というテーゼは一見すると倫理的な命法を内包した命題のようでいて、実際は思考を薄弱化させ、倫理の貧困を促すものであるということだ。

バディウはさらに、一般的な「倫理」という名称の下に隠蔽される西洋の人道的介入や慈善の欺瞞性を暴き、人権や自由といった自然権的権利の保守性を告発しているのだが、そこまで言っていいものかは疑問符が付く。カント的な思考の形式性は、例えば立憲主義の有効性を考えた場合、簡単に手放してよいものとは思われないからだ。それでもやはり、バディウが保守-保全的な倫理に対抗して掲げる次のようなテーゼは、個人的には深く賛同できるものである。

すべからく人類は特異な諸状況についての思考との同一化にみずからの根拠を据える。倫理一般など存在しない。存在するただひとつでありながらも偶発的なことは、それによって私たちがある状況が有する多様な可能なことに対処する倫理の過程だけである。

 

同上、32-33頁。

重要なのは、こうした「状況」・「過程」についての思考の枠組みの政治的な簒奪を警戒し、特異性を立ち上げ続けることである。