知る権利の明記は一歩前進か:特定秘密保護法案について

すっかり消費税増税の陰に隠れてしまった感があるが、特定秘密保護法案をめぐる議論がかまびすしくなっていた。 

法案の所管大臣である森少子化担当大臣や、菅官房長官が知る権利の明記について述べたり、政府原案にはなかった文書管理のルールを設けることが示唆されたりと、政府の対応も二転三転している。パブリックコメントの募集期間をわずか二週間に限定したにもかかわらず9万件以上もの意見が寄せられ、その8割が反対意見だったとあっては、火消し的な対応に追われるのも当然だろう。こういった対応の変化を、国民の権利保護についての一歩前進と見る向きもあるかもしれないが、それにしてもまず感じるのは、政府が自分たちの活動をブラックボックス化したいという欲求にいかに衝き動かされているかということであり、その見切り発車ぶりにはあらためて唖然とさせられる。

「機密」の外延も確定させないまま、既遂犯だけでなく未遂、共謀、教唆まで処罰対象とするこの法案が垣間見せるビジョンは、言うまでもなく単なるスパイ防止や国家のセキュリティの確立にあるのではなく、全国民を潜在的犯罪者に仕立て上げ、その潜在性が顕在化しないような自己抑制を促すという意味で、国民心理にまで介入しての治安体制形成である。全体主義への傾斜という非難は、決して誇大妄想ではなく根拠のあるものだと思える。法案の具体的な部分への批判(というか、法案が肝要なところでまったく具体性を欠いていることへの批判が主)はさまざまになされているが、やはり専門家集団である日弁連による意見書が最も包括的で体系立っていると思うので、リンクを貼っておく(参考:「特定秘密の保護に関する法律案の概要」に対する意見書)。

問題点の総合商社のような法案であるが、個人的に非常に引っかかった箇所の一つが裁判に関わる論点だ。秘密漏洩の嫌疑で逮捕・起訴された被告人の裁判において、国家機密の保全があくまで図られるならば、公開裁判の原則は保持されるのかという問題である。漏洩された時点で既に明るみに出てしまった機密なんだから、というような議論は当たらない。先に触れたように、この法案では未遂犯や教唆犯も処罰の対象になっているからである。国家機密なるもののの護持をあくまで優先するのならば、裁判のプロセスは閉鎖的なものにならざるをえない。それだけでなく、弁護士による調査も国家機密へのアクセスに関わるものとなり、教唆・共謀の嫌疑をかけられうるものになるという悪循環を招きかねないし、そうなると弁護活動そのものが委縮させられることになるだろう。民間の取材などなおさらである。さらに、明確なスパイ的意図を持たず、たまたま国家機密にアクセスした人物が、知りえた内容をそれと知らず周囲に話したような場合には、被告人が何の理由で自分が裁かれているかすらわからない、という事態すら想定できる(法案は故意犯だけでなく過失犯の厳格な処罰をも視野に入れている)。自分がどのような事情で裁かれているのかを知ることは、裁判に関わる国民の権利の重要な部分の一つである。「何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。」(日本国憲法第34条) 

日本国憲法は実は、第82条2項で「公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる」と定めているが、これはきわめて限定的な場合であり、「政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となってゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない」とされている。第三章というのはもちろん、基本的人権の根幹を定めた部分である。そして非公開の場合も、それを決定することができるのは「裁判官の全員一致」によるのみであり、政府などが口出しする余地はない。このような公開裁判の原則、加えて当然のことながら基本的人権の尊重、これらの憲法上の理念を無視し、セキュリティの名の下に本人すら自覚しないうちに犯罪者と名指しされうる国家形成の可能性――この可能性が懸念されるからこそ、治安維持法が引き合いに出されるのは故なしではないのである。

というわけで、知る権利の明記だとか機密書類保存ルールの策定だとかは所詮は弥縫策、お為ごかしに過ぎず、ぼくはそもそもこの法案は成立すべきでないと思っている。権利の存在とはその遂行そのもののうちにあるのだから、知る権利の遂行性に対する阻害・制約を図った法案の中に知る権利が明記されるなどと、笑えない笑い話である。理念としては、権利は我々の人格、存在に内在していると理解されるが、権利の行使が確保されない状況においてその権利の存在は確認されると言えるのだろうか。法案は知る権利全般の抑圧を意図したものではないと言われるかもしれないが、裁判をめぐる論点を取り上げただけでも、この法案が基本的人権に関わる知る権利の制限につながることは明らかであろう。仮に知る権利の明記が一歩前進だとしても、それは何百歩も後退した地点からの前進に過ぎないのである。