解釈改憲による集団的自衛権容認に反対する

安保法制懇での審議の後、集団的自衛権容認の方向で憲法解釈を変更する閣議決定を行なう腹を安倍内閣が固めたという報道があった。

反対である。

最近テレビなどでよく見かける安保法制懇の中心メンバーの一人、北岡伸一は、事あるごとに憲法改正の手続きの非迅速性をあげつらい、あるいは重大事態への対応をどうするのかなどと、脅迫的と形容するしかない論法で集団的自衛権容認へのコンセンサス形成を目指しているが、そこには法治国家体制、立憲主義への顧慮は欠片も見られない。

憲法改正が国家の存立理念の根幹に関わるものであるだけに、迅速、というか拙速に行なうべきでないことは明白であろう。その手続きを回避して解釈で憲法の理念に重大な変更を加えられるとなれば、日本国憲法が成文硬性憲法であることの意味がなくなる。俗に「解釈改憲」という言葉が使われるが、これが単なる「解釈」の問題ではなく「改憲」の語を含んでいることは、もっと重大視されてしかるべきである。

硬性憲法であるからといって、あらゆる改正に反対するという議論に与するつもりはない。現実に日本国憲法には改正規定が存在する。そしてそれを補完する国民投票法も2007年に可決・公布(しかも第一次安倍内閣の下、当時与党であった自公案)、2010年から施工されたばかりである。つまり、憲法は改正に対して開かれている。ところが自らがイニシアティヴを取って具体化させた手続きさえ踏まずに、解釈による実質的改憲に踏み切るとなれば、包括的憲法改定を目論む自民党の改正案の方が、まだ正攻法を採用しようとする分マトモに思えるほどである。しかも有事の際にどうするのだ、などという脅迫的言辞を背景に強行されるとなれば、立憲主義に対する政治的テロリズムと看做されても仕方ないだろう。

北岡の言うような重大事態が、仮に中国からの日本への攻撃を指すのであれば、いうまでもなくこれは個別的自衛権によって対応できる案件である。安保条約によって集団的自衛権の発動を求められるのはアメリカ合衆国だ。もちろんこれは安易に国民の危機意識を煽ろうとするレトリックに過ぎないとは思うが。

やはり透けて見えるのは尖閣問題であろう。アメリカは尖閣が安保条約の対象になることを明言し、日本の施政権が及んでいることは確認しているが、尖閣に対する日本の主権を認めているわけではない。中国との妥協にいつでも舵を切れるような二股の保険は、薄いものではあるが確保しているのだ。ゆえに日本はそんなアメリカを繋ぎ留めておきたい。そのための貢納品に当たるのが、集団的自衛権によるアメリカの武力行使の承認とそれへの一体化、そしてもちろんTPPである。その意味で安倍政権の政策は、かなり一貫しているのだ。一方アメリカの方も、ユニラテラリズムを辞さない先制攻撃ドクトリンは捨てたとはいえ、むしろそのことによって、国際協調主義と干渉主義の狭間で確固とした立ち位置を確立できずにいる。シリア攻撃をめぐってイギリスにすら離反された今、無条件での支持を期待できる翼賛国家を確保し続けることは重要な命題であろう。この両者の利害の結節点の一つとして、集団的自衛権の問題が浮かび上がっているのだ。アメリカとしても、尖閣への安保行動の保障と引き換えに、日本のTPP参加と共同軍事行動が買えるとなれば、安い買い物であろう。そしてここからは当然の理路として、安倍政権は表向きどのようなことを言おうと、実のところ尖閣問題の自主解決など放棄しているのだという結論が導き出される。集団的自衛権を性急に容認しようという議論が露呈させているのは、中国のプレッシャーに対してアメリカのプレッシャーをもって応える以外の方途を見出せない、見出そうともしない、日本外交の無策である。

それからこういった政治的事情への勘案とは別に、何より重要なのは立憲主義の堅持であるということを繰り返しておきたい。安倍政権が今なお国民大多数の信任を得ている(少なくとも支持率という形で)ことは、ここでは問題にならない。詳しくはあらためて述べたいが、立憲主義と民主主義の間には相克の契機があり、立憲主義はともすれば暴走しかねない民主主義に対する安全弁の役割を果たしている。もちろん民意なるものが蔑ろにされてよいということではなく、憲法に関わる決定について必要な民意の整序を行なう回路は、憲法改正規定において具体化されているということである。この手続き要件を満たすことなく解釈「改憲」へと進むならば、「民意」の価値を切り下げ、民主主義を毀損することになる。そしてそれは、国家としての日本が採用する指針そのものの、正当性と正統性の基盤を掘り崩すことでもあるのだ。