『風立ちぬ』感想② ~飛行機とファンタジー

先日の日記でこう書いた。「物語の縦糸をなすのは正統派と言ってもいいラブストーリーである」と。ところが宮崎駿の手になる「企画書」には次のようにある。

後に神話と化したゼロ戦の誕生をたて糸に、青年技師二郎と美しい薄幸の少女菜穂子との出会い別れを横糸に、カプローニおじさんが時空を超えた彩どりをそえて、完全なフィクションとして1930年代の青春を描く、異色の作品である。

端的な意味では、ぼくはどうやら勘違いをしていたようである。だがここで重要なのは、作品に対するどのような理解が正統であるか、ということではない。言うまでもなく作品への印象など、受け取り手によって千差万別であるし、「企画書」を読んだところでぼくの印象が覆るわけでもない。作品解釈の自由という当然のことを踏まえた上で留意すべきなのは、制作側の意志として、この作品を進行させる駆動力が飛行機に割り振られている、ということであろう。

それではなぜ飛行機なのか、と考え出すと泥沼にハマり込む予感がする。『風立ちぬ』の軸線としてゼロ戦の開発物語を据えることになったのはどうしてか、という問いに対しては、究極的には宮崎の飛行機に対するこだわりをもって答えるしかないと思われる。それは何らかの有効性への考慮や利害戦略に準拠した政治的判断ではなく、ア・プリオリな価値の体系に基づく価値判断でもない、宮崎駿個人の生を背景とした実存的決断である。その限りにおいて、この決断には、プロセスはあっても理由はない。あるいはプロセスそのものが理由を構成する。およそあらゆる決断には、様々な条件への配慮や結果をめぐる逡巡といった要素から身を引き剥がす、賭けや跳躍にも比される非合理性の契機がある。昼食をカレーにしようか牛丼にしようか迷っていたのに、突如としてラーメンに決めるという事態は、単なる気まぐれや決断における例外事例ではなく、むしろ決断の本質的な側面を示唆しているように思える。決断に内在する非合理な部分に対して、端的で一意的な回答を期待して「なぜ」と問うことは、噛み合わない議論を生むことになるだろう。

ところで決断における非合理的な側面の強調は、歴史学の意義の減殺を企図したものではない。決断の瞬間そのものは非合理な切断であっても、行為には必ず責任が伴う。政治的決断は結果責任を問われるし、刑事犯罪もそうである(殺人を思い巡らすことは犯罪ではないが、殺人は犯罪である)。芸術家であれば、理由を云々するのとは別に、出てきた作品に対する批評を受け止めるという形で結果責任を引き受けねばならない。決断の瞬間は捕捉不可能なものであるとしても、その意味は結果を含むプロセスから生まれる。「なぜ殺したのか」という審問に対する「太陽が眩しかったから」という不条理な返答は、行為を導く切断の論理化不可能性を示すのみならず、決断の意味が、「動機」の次元ではなくその者の生の全体性に依拠して再構成されねばならないことを語っているのだ。刑事裁判において罪刑法定主義が重視されるのは、法の下の平等という理念が前提にあることはもちろんだが、それとは別に刑罰が、根本的に動機の次元に立脚することが不可能だからである。法を構成する一般性の言語は、個人の動機や理由に関わる個別性の言語と相容れない。ただしすべての行為を一般性に還元することは、法による同一化の暴力である。ゆえに罪刑バランスには幅が与えられているし、日本国憲法は裁判官に対して、憲法および法律への拘束を言い渡しつつ、職権行使の際に各自に「良心」を担保すること(76条)によって、一般性と個別性の間を調停しようとしている。

少し寄り道が過ぎた。要は、「なぜ飛行機か」に十全な回答を与えるためには、宮崎駿に対する伝記的アプローチ(バイオグラフィー=生の記録)が不可欠だろうということだ。ここではそれよりも、複数の答え方を並列的に許容する問いを立ててみたい。すなわち「飛行機とは何か」である。

『風立ちぬ』の中で、時代の風に翻弄されながらも生き抜こうとする人間像を描くにあたって、飛行機はその困難さや矛盾を凝縮する特権的な形象である。「僕は美しい飛行機をつくりたいと思っています」と言う主人公「堀越二郎」が、戦争に至る時代の中で作りえたのは、否応なく戦闘兵器であるという矛盾。あるいは、設計技師として美しい飛行機を作りたいという夢に邁進すればするほど、結核に侵されて療養を余儀なくされる菜穂子との距離が埋め難いものになっていくという矛盾。時代状況が個人の生に対して押し付けてくる矛盾を集約的に体現する場として、航空機産業が選ばれたという点は指摘できると思う。そしてさらに視野を広げるならば、当時の一般の人々の生が戦争によって規定されざるをえなかったという「被害」的な側面と、総力戦体制を展望しつつ戦争に向かっていく日本において、その日の生活に心血を注ぐことが同時に国家の戦争遂行へのリンケージを避けられないという「加害」的な側面、一般民衆を巻き込む被害/加害の二重性をも、この作品は射程に入れていると言えるのかもしれない。

念のために付け加えておくが、「感想①」でも触れたように、この映画が戦争賛美であるのか、あるいは戦争批判か、といった論点は焦点がずれているように思う。「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない」と述べられている通りである。宮崎が描いているのは、矛盾の具体相であり、イデオロギーでないということは、作品を一度見さえすれば明らかである。兵器を開発すれば加害者、殺されれば被害者、という風な二元論は抽象化の産物であり、そのような白黒の境界線上においてこそ、矛盾に満ちた個人が成立する。「描かねばならないのは個人である。」ゼロ戦は、個人と時代とを具体的に架橋する装置なのである。

それにしても、振り返ってみれば、飛行機ほど宮崎駿に憑りついてきたきた形象はない。ゼロ戦について云々するのであれば、「美化」とかそれ以前に、ゼロ戦は美しいというのが前提となっていることを忘れてはならない。それは「航空史にのこる美しい機体」なのである。これは政治的な論点ではない。飛行機、というか飛行機械全般が宮崎にとって一種のフェティッシュとして機能している、というのはいささか極論であるが、審美的な対象として捉えられているのは、これまでの作歴からも明白だろう。例えば『風の谷のナウシカ』(漫画版)でも、ナウシカがガンシップの醜さをメーヴェと対照させる場面がある。『風立ちぬ』劇中においても、飛行機へのこだわりは余すところなく描写されている。関東大震災のさなか、「菜穂子」と「お絹」を連れて避難する「二郎」が、風に舞う火の粉に飛行機を幻視するシーンなどは、飛行機設計者というキャラクター設定を通り越して、宮崎自身の飛行機に対する狂気をはらんだ情熱がオーバーラップしているようにすら見える。そのような飛行機への情熱と狂気を体現し、夢想の中で「二郎」に語りかけるキャラクターがカプローニである。

カプローニは言う。「夢は便利だ。どこへでも行ける。」

翼を持たない人の身でどこへでも行けるという夢、宮崎にとってそれを可能にしてみせる夢の翼が飛行機であるということに、何の疑問もない。空を飛ぶことは、宮崎ファンタジーの核心にあるモチーフである。

周知のように、『風立ちぬ』について宮崎駿は事あるごとに、それがファンタジーであることを否定してきた。今の時代にもう、女の子が成長したとか別の世界に行ってきたとか撮ってられねえよ、といった風な発言もしている。宮崎自身が「ファンタジー」について殊更に定義しているわけではないので、ここでは「現実の歴史的・社会的状況から遊離した世界を描くもの」という程度に想定しておいて差し支えはないと思う。ところで実際問題として、これまでの宮崎作品がそのようなものばかりだっかというと、明らかにそうではない。『風の谷のナウシカ』が現代文明を批判し、自然との共生を一つのテーマとしていたこと(それがメディア等で強調され過ぎたきらいはあるが)は一般にも認知されているし、『千と千尋の神隠し』の場合も、異界への通路となっているのがバブル期に失敗を重ねた三セクによる開発の廃墟と思しき土地であったり、環境破壊を受けた川の主がヘドロまみれの姿で現れたりと、社会批判的な視座は十分に有している。それでもなお宮崎は、従来の作品をファンタジーと位置づけ、『風立ちぬ』との間に一線を画そうとするのである。その理由の一端については、「感想①」で簡単にではあるが推測したので、ここでは繰り返さない。

しかし、宮崎のそのような姿勢は自覚的なものであると考えた上でなお、ぼくとしてはそれはミスリーディングであると思う。ファンタジーであることを執拗に否定すること自体が、作家のファンタジーへの拘泥を証し立てているとも言えるし、これまでの作品系列の射程を制限することになりかねない。本人の意図を尊重するとしてもだ。

『風立ちぬ』と題されたこの作品の劇中で、タイトル通りに強い風が吹くシーンがいくつかある。ほとんどは「二郎」と「菜穂子」の出会いに関わるものなのだが、一つそうではない場面で、印象に残る箇所があった。「二郎」が中心となった設計者たちの夜間研究会のシーンである。活気に満ちたスタッフを前に、「二郎」は最新の技術をつぎ込んだ機体案を説明してゆく。その理想の機体は少し重くなるため、「機関銃を乗せなければ何とかなるんだけどね」というオチがつき、一同は笑い出すということになるのだが、その様子をこっそりと窺っていた「二郎」の上司「黒川」の脳裏には美しい機体がありありとイメージされ、彼の正面から一陣の風が吹き抜ける。飛行機はかくあらねばならないと言っているかのようである。そこに展望されているのは、紛うことなき夢の翼である。そんな夢の翼への思いを結実させたこの作品が、どうしてファンタジーでないわけがあろうかと思うのだ。

ひょっとしたら、そんな理想の機体が現実化することなく挫折したという点において、『風立ちぬ』のファンタジー性は否定されているのかもしれない、とも感じる。兵器は旅を導く道具ではない。兵器は綿密に作戦に従って運用されてこそ意味がある。それは「どこへでも行ける翼」ではなく、「どこかへ行かなければならない」不自由な翼なのだ。ならばこの作品は、現代におけるファンタジーそのものの挫折を語っているのだろうか。

おそらくそうではないだろう。理想の機体の挫折は、現在時制での不可能性として表象されることによって、その道を閉ざされるのではなく、むしろ未来を開示する役割を負っているのだ。いまだ叶わぬ夢としての理想の機体は、未来への駆動力である。その未来は、ある意味で当然のように、劇中では描かれなかった。それは作品を開かれたものにしておくためだろう。冒頭で、飛行機が本作の駆動力であると書いたが、その推進力は、一つの作品の枠を突き破り、さらに先を見据えるものなのだ。宮崎が制作の過程で既に引退を考えていたかどうかはわからないが、ファンタジーの不可能を語る発言は、ファンタジーの禁止を意味するものではない。それは、現代における不可能性の外観を乗り越えて未来を構想しろという、反語的な命法を含むものなのだと思う。その意味で『風立ちぬ』は、それ自体が完全なファンタジーなのではなく、もちろんファンタジーであることを全否定されるべきものでもなく、今後誰かによって紡がれるであろう来るべきファンタジーのための、いわばプレ・ファンタジーなのではないだろうか。そしてその「誰か」とは、誰でもありうるし、誰しもでなければならないのだと感じるのである。