麻生発言について

今さらだが、麻生発言について。

2013年7月29日、国家基本問題研究所が主催したシンポジウムのなかで、この時点での日本国副総理財務大臣・金融担当大臣である麻生太郎氏が、ナチスに言及したことをめぐる問題である。

全文はこちら。

朝日新聞デジタル:麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細 - 政治

 

一部では、マスコミが発言を部分的に切り出して、針小棒大に問題に仕立て上げた、という批判もあるようだが、基本的には擁護しようのない発言だと思う。

全文を読めば、必ずしも麻生氏がナチス肯定論を主張したわけではない、ということは、一目瞭然ではないがわかる。というか、もしナチス肯定論を公の場でぶち上げたのなら、さすがに政治生命にかかわる。しかし、とりわけ問題とされた次の箇所、

憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。

 これを、ナチスを見習ってナチスのようなやり方で日本国憲法を改正したい、という意思表明以外のものとして読むことは困難だと思う。端的にそう思う。

しかしこれがナチス模倣論ではないとしても、麻生発言から問題性が払拭されるわけではない。

実は引用した個所の直前には、靖国参拝をめぐるマスコミや中国・韓国の喧騒に満ちた反応を揶揄するような言葉がある。この点をとらえて、ある方のブログ記事(麻生発言の朝日の全文書き起こし(私家版) - さぼり記)は、麻生発言は「マスコミに対する嫌味」ではないかと推察している。この方はそう推察するだけで、発言をそれ以上前に進めていないが、麻生発言の主題はマスコミ批判であるという方向性で擁護を考える人も、一定数いるのではないだろうか。つまり麻生氏は、冷静な改憲論議を促しているのであり、ギャーギャー感情的に騒ぎ立てるマスコミは自己抑制して、静かに報道する「手口」を学べ、というわけだ。

実際のところ、このような解釈には明らかに破綻がある。「あの手口」と麻生氏が名指すやり方は、「だれも気づかないで変わった」という様態のものである。そのような状況で想定されるのは、どう考えても冷静な議論や検討ではなく、マスコミのみならずあらゆるメディアの機能不全であり、延いては知る権利に対する全般的な阻害である。発言の大半で、麻生氏が民主的議論を歓迎しているように読めるのはたしかだが、「だれも気づかないで」という表現はその配慮を一蹴するものであり、看過できない。仮に麻生氏が「あの手口」をマスコミに奨励しているのだとすれば、潜在的には表現の自由や知る権利といった基本権の抑圧を容認しているということになりかねないからだ。こうして、麻生発言の本意はマスコミ批判である、という風な擁護論は、それはそれでこの発言の問題性を浮かび上がらせる結果になる。

一方で、麻生氏の講演における導きの糸の一つがマスコミ批判であるのは、たしかであろう。多くのメディア報道は、おそらくは意図的にその点を言い落している。マスコミは第四の権力であり、その権力の恣意性が麻生氏の発言を捻じ曲げて伝えたという批判の成立する隙が、ここにある。だからこそ既存のマスコミはこれに対して原理的な反論をする作業も同時に行なわなければ、ますますその存在理由が薄れるだろう。ただし、多くのマスメディアが現状、報道機関としてろくに機能していないことは、麻生発言を何ら正当化するものではない。先述の通り、この発言の射程は、自由権的基本権の侵害の問題に及ぶからである。

結局、麻生発言の問題性は、「ナチス」に安易に触れたということだけではないのだ。主要政治家がナチスに言及するというのは、どうしてもセンセーションを呼ぶものだし、「ナチス=悪」というコンセンサスが一般に成立しているように見える状況下では、その手口に学ぶという発話がそれだけで非難されるのは、必然でもあるだろう。だが、例えば憲法改正という大テーマが横たわる現在の日本において、その発言がどのような問題を導くか、ということまで突き詰めなければ、批判としての意味は減じるだろう。ナチスそのものは批判されるべきだが、ナチスを批判すれば今の日本の状況批判としても有効だ、というような短絡的なものでもなく、まして麻生氏自身がナチスであるわけでもない。ナチスへの軽率な言及を、「ナチス=悪」の図式に従って非難して事足れりとすることのリスクは、時事性・特異性・状況性への考慮の喪失である。ナチスという悪の形象を召喚することは、批判の始まりでこそあれ、決して終着点ではない。